手信(夏目漱石)
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《三四郎》(1908)、《从此以后》(1909)、《门》(1910),是夏目漱石中期创作的小说,通称前《三部曲》。
这三部作品的主人公及故事情节虽然各不相同,但在主题思想上却有着内在的联系。
小说《三四郎》描写青年主人公小川三四郎,由故乡熊本高中毕业后考入东京帝国大学,在同学校和社会上各方面人士交往的过程中,他对一切都感到新鲜。
相比之下,自己过去的乡间生活显得多么闭塞而又贫乏。
在大学里,三四郎遇到了同乡野野宫宗八。
他是个知名的物理学家,每天钻在地窖里埋头于科学研究,对交友和恋爱都不感兴趣。
三四即的同窗佐佐木与次郎,是个热爱文学、精力充沛的青年,但又不免流于肤浅。
他还结识了少女美祢子,生活中充满了绮丽的幻想,他爱慕她,却又不敢对爱情采取积极的态度。
美祢子是个富有教养的新型女性,她天真热情,具有独立的判断事物的能力。
但她又看不起平民出身的三四郎,终于同一个上流社会的男人结了婚。
作品还塑造了自由主义者广田先生的形象,他清高自诩,卓然不群,对待人生和社会始终抱以高蹈的批判目光。
从广田先生这个人物身上,读者可以窥见作家本人的影子。
《从此以后》的主人公长井代助是一个无职业的“高等游民”。
他头脑聪敏,对资本主义社会抱有清醒的认识。
他认为在那样的社会里,职业只会使人堕落。
他的朋友平冈本是个具有理想的实干家,但在现实面前累遭厄运,生活困顿,精神上一蹶不振。
平冈的妻子三千代,婚前原是代助的女友,代助看到平冈很爱她,便成全了他们。
三年之后,代助发现自已的这一行为并未能给三千代带来什么幸福,便毅然拒绝了父兄通过金钱关系为他包办的婚姻,下决心与三千代一起共同创立新的生活。
如果说《三四郎》中的广田先生对社会的批判只停留在一般的议论和冷眼旁观的立场上。
那么,到了《从此以后》,作者便让自已的人物置身于社会生活的激流之中,使得这种批判更深入、更直接了。
继《从此以后》之后,夏目漱激石于1910年创作了前《三部曲》的最后一部作品《门》。
夏目漱石心日文版原文摘要:I.夏目漱石的简介- 夏目漱石的背景和时代- 夏目漱石在日本文学史上的地位II.《心》的故事梗概- 《心》的主要角色- 《心》的故事背景和起因- 《心》的主要情节和发展- 《心》的结局III.《心》的主题和意义- 《心》对人性、爱情和道德的探讨- 《心》对日本社会和文化的反映和批判- 《心》的艺术风格和写作技巧IV.夏目漱石的影响和启示- 夏目漱石对后世日本作家的影响- 《心》对读者的启示和影响正文:夏目漱石(1867 年2 月9 日~1916 年12 月9 日)是日本近代文学的巨匠,被誉为“国民大作家”。
他的作品不仅在日本文学史上占有重要地位,而且在世界范围内也备受瞩目。
夏目漱石的许多作品,如《我是猫》、《坊っちゃん》等,都已成为日本文学的经典之作。
而《心》则是夏目漱石的一部重要小说,时至今日仍然跻身于日本中学生最喜欢读的十部作品之列。
《心》的故事围绕主人公“先生”展开,讲述了他一生中的爱情、道德和自我救赎。
先生是一个善良、自私、聪明、矛盾的人,他深爱着自己的妻子,却又无法抵挡诱惑,与另一个女人发生了婚外情。
在道德和良心的谴责下,先生最终选择了自杀,留下了长达三十页的遗书。
《心》是一部深入探讨人性、爱情和道德的小说。
夏目漱石通过先生这个角色,展示了人性的复杂和矛盾,让读者在阅读过程中反思自己的道德观念和价值观。
同时,《心》也对日本社会和文化进行了批判,揭示了当时社会的道德沦丧和虚伪。
在写作技巧方面,《心》具有夏目漱石独特的讽刺和幽默,以及对心理描绘的细腻和深刻。
夏目漱石通过生动的对话和细致的心理描写,让读者深入感受到先生内心的痛苦和挣扎。
总的来说,《心》是一部具有深刻主题和丰富艺术价值的小说,不仅在日本文学史上占有重要地位,也对世界文学产生了深远的影响。
夏目漱石与《心》夏目漱石(1867-1916),是日本优秀的批判现实主义作家,也是近现代文学家中的泰斗。
长篇小说《心》发表于大正三年(1914年)4月,是夏目漱石的后期代表作之一。
作品由“先生和i我”,“父母和我”,“先生和遗书”三个部分构成。
夏目漱石通过对前两章节内容的描写,对故事进行铺垫和衬托,引出最后“先生与遗书”的故事高潮,讲述了“先生”与他的挚友“K”的往事:“先生”和“K”同时爱上了房东的女儿。
起初“先生”因自身的原因而隐藏了他的感情,但当他得知“K””也有同样的心意之后,就在其“个人主义”思想的支配下使用手段,捷足先登,求婚成功。
这一行为伤害了以“道”为自我信条的“K”,在痛苦中他最终自杀。
但“K”的死反过来又让“先生”极度自责,他在反思自己的自私行为之后也选择了自杀。
如果把小说《心》的故事情节和人物的塑造,同作者夏目漱石本人的人生经历和思想观念进行比较分析,我们就可以看到夏目漱石自身与作品的故事情节,以及与“先生”和“K”都有着深刻的渊源关系。
本文主要通过夏目漱石与书中两个人物的分别比较展开论述,来探讨作品《心》中所展示出来的夏目漱石本人的两个侧面。
一、夏目漱石与“K”:苦难彷徨的人生经历从作品中的描写和叙述可以看出,夏目漱石和“K”之间的关联之处,主要展现在两者的身世背景、幼年和求学期间的经历、人生所遭遇的苦难,以及各自在理想上的追求等诸多方面。
他们同样被自己的生身父母过继给别人做养子,在年轻时期的求学路上,也同样经历过生活的苦难和思想上的彷徨。
夏目漱石原名夏目金之助,于1867年2月9日生于今东京都新宿区喜久井町的一个小吏家庭,排行第八,是家中的末子。
夏目家原本在地方上势力庞大,然而到夏目漱石出生时家境已逐渐没落。
又因他出生时父亲已50岁,母亲也42岁,这样的年龄生孩子让他们很是难堪,于是夏目漱石从小便被当作一个多余的孩子而被冷眼相对。
不希望他出生的双亲很快将夏目漱石寄养在别人家,而他还是从一家的养子变成另一家的养子。
夏目漱石心日文版原文(原创版)目录1.夏目漱石及其代表作《心》简介2.《心》的主题及内容概括3.《心》的文学价值及影响4.夏目漱石对日本文学的贡献5.夏目漱石在我国的影响及地位正文1.夏目漱石及其代表作《心》简介夏目漱石(1867 年 2 月 9 日~1916 年 12 月 9 日),日本近代作家、文学家。
他在日本近代文学史上享有很高的地位,被称为国民大作家。
夏目漱石对西方文化有很高的造诣,他的头像曾被印在 1000 日元纸币上。
他的著名小说《心》是他的忏悔录,至今仍然跻身于日本中学生最喜欢读的十部作品之列。
2.《心》的主题及内容概括《心》的主题是探讨人性的善恶和道德的矛盾。
故事讲述了一位年轻学生与一位富有学识、家境优渥的先生之间的交往。
先生看似拥有完美的人生,却总是感到与世隔绝般的孤独。
最终,先生选择了自杀,留下一封长长的遗书。
遗书中,他向世人展露了一颗不安脆弱的心走向破碎的全过程。
3.《心》的文学价值及影响《心》是夏目漱石的代表作之一,具有很高的文学价值。
这部作品深入探讨了人性的复杂和道德的矛盾,反映了作者对人性的深刻洞察。
同时,《心》对日本文学产生了深远的影响,许多日本作家都受到这部作品的启发和影响。
4.夏目漱石对日本文学的贡献夏目漱石对日本文学的贡献是巨大的。
他不仅是日本近代文学史上的重要作家,而且是批判现实主义文学的代表人物。
夏目漱石的创作对日本文学的发展产生了深远的影响,他的作品被认为是日本文学史上的经典之作。
5.夏目漱石在我国的影响及地位夏目漱石在我国的影响同样很大。
他的作品被翻译成中文,受到许多中国读者的喜爱。
夏目漱石的文学风格和思想观念对我国现代文学产生了一定的影响。
夏目漱石的“明治精神”*———再论夏目漱石《心》中“先生”之死曹志明(黑龙江大学,哈尔滨150080)提要:本文着重分析日本文学巨匠夏目漱石后期代表作《心》的主人公“先生”自杀的原因和“明治精神”的含义。
笔者认为,主人公“先生”由于受到传统伦理道德谴责,并非“明治精神”才选择自杀。
夏目漱石非常反感急功近利的明治时代。
综观他的每一部作品,作为知识分子的主人公,几乎都质疑以自我、个人主义为先导的西方文明。
在东西方文化冲突下,“明治精神”实际上以主人公为代表,怀念东方传统文化的一代知识分子孤独、失落和怀疑的精神写照。
关键词:夏目漱石;《心》;明治精神;文明开化中图分类号:I106文献标识码:A文章编号:1000-0100(2013)03-0129-5The“Meiji Spirit”of Natsumesoseki—Discussion on the Death of the“Teacher”in Natsumesoseki’s Work The HeartCao Zhi-ming(Heilongjiang University,Harbin150080,China)This paper analyses the reason of the hero’s suicide and the meaning of the“Meiji spirit”in the Japanese literature giant Natsumesoseki’s work.The Heart,which was written in his later years.The writer indicates the hero“teacher”committed sui-cide because of the condemnation of the traditional moral principles,not for the“Meiji spirit”.Natsumesoseki was disgusted with the era of the instant benefits.In each of his works,the Western civilization which emphasizes self-centeredness and individual-ism was questioned by the intellectuals like the hero.In the conflict between Eastern and Western cultures,the“Meiji spirit”is actually the reflection of loneliness and doubt of a generation’s intellectuals with the hero as a typical example,who cherished traditional Eastern culture.Key words:Natsumesoseki;The Heart;the“Meiji spirit”;civilization夏目漱石是日本近代文学巨匠,他生活在东西方文化激烈撞击的明治时期。
日本作家夏目漱石的作品中名言名句摘抄1、如果你记得从前曾跪在那人面前,这一回,你要把脚搁到他的头上去。
我为了不受将来的侮辱,所以要拒绝今天的尊敬。
我愿意忍受今天的我的寂寞,来代替忍受比今天更寂寞,未来的我的寂寞。
——夏目漱石《心》2、发挥才智,则锋芒毕露;凭借感情,则流于世俗;坚持己见,则多方掣肘。
总之,人世难居。
——夏目漱石《草枕》3、一切安乐,无不来自困苦。
——夏目漱石《我是猫》4、世人褒贬,因时因地而不同,像我的眼珠一样变化多端。
我的眼珠不过忽大忽小,而人间的评说却在颠倒黑白,颠倒黑白也无妨,因为事物本来就有两面和两头。
只要抓住两头,对同一事物翻手为云,覆手为雨,这是人类通权达变的拿手好戏。
——夏目漱石《我是猫》5、人生二十知有生的利益,二十五而知有明之处必有暗,三十而知明之多处暗也多,欢浓之处愁更重。
——夏目漱石6、你或许为之惊诧,但我至今仍这样深信不疑,深信真正的爱同宗教信仰没有什么不同。
——夏目漱石《心》7、人哪,为了消磨时间,硬是鼓唇摇舌,笑那些并不可笑、乐那些并不可乐的事,此外便一无所长。
——夏目漱石《我是猫》8、悲剧终于来临,我早就预测到悲剧迟早会来临,我却袖手旁观任其发展,因为我深知对于罪孽深重的人,只手单券根本无法阻挡她们的行为。
因为我深知悲剧的伟大,才想让她们体会悲剧的伟大力量,让她们彻底洗涤横跨三代的罪孽。
并非我冷漠,倘若我举起一只手即会失去只手,瞄一眼即会令只眼瞎掉。
就算我失去只手和只眼,她们的罪孽依然不变。
不仅不变,反而会逐日加深。
我并非因恐惧而束手或者闭目。
只是私下认为大自然的伟大制裁比人的手眼更亲切,能让人在眨眼间看清自己的真面目。
——夏目漱石《虞美人草》9、普天之下,哪怕有一个也好,必须寻找出能俘获自己这颗心的伟大的东西,美丽的东西,或是慈祥的东西. ——夏目漱石《春分之后》10、这个世界对平时的他来说是遥远的“过去”,但它又带着在紧急关头必然变成“现在”的性质。
夢十夜夏目漱石第一夜こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐すわっていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭りんかくの柔やわらかな瓜実うりざね顔がおをその中に横たえている。
真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇くちびるの色は無論赤い。
とうてい死にそうには見えない。
しかし女は静かな声で、もう死にますと判然はっきり云った。
自分も確たしかにこれは死ぬなと思った。
そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗のぞき込むようにして聞いて見た。
死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開あけた。
大きな潤うるおいのある眼で、長い睫まつげに包まれた中は、ただ一面に真黒であった。
その真黒な眸ひとみの奥に、自分の姿が鮮あざやかに浮かんでいる。
自分は透すき徹とおるほど深く見えるこの黒眼の色沢つやを眺めて、これでも死ぬのかと思った。
それで、ねんごろに枕の傍そばへ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
すると女は黒い眼を眠そうにたまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私わたしの顔が見えるかいと一心いっしんに聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。
自分は黙って、顔を枕から離した。
腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋うめて下さい。
大きな真珠貝で穴を掘って。
そうして天から落ちて来る星の破片かけを墓標はかじるしに置いて下さい。
そうして墓の傍に待っていて下さい。
また逢あいに来ますから」自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。
それから日が沈むでしょう。
それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。
――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」自分は黙って首肯うなずいた。
手紙夏目漱石一モーパサンの書いた「二十五日間」と題する小品には、ある温泉場の宿屋へ落ちついて、着物や白シャツを衣装棚(いしょうだな)へしまおうとする時に、そのひきだしをあけてみたら、中から巻いた紙が出たので、何気なく引き延ばして読むと「私の二十五日(メヴァサンジュール)」という標題が目に触れたという冒頭が置いてあって、その次にこの無名式のいわゆる二十五日間が一字も変えぬ元の姿で転載された体になっている。
プレヴォーの「丌在」という端物(はもの)の書き出しには、パリーのある雑誌に寄稿の安发け合いをしたため、ドイツのさる避暑地へ下りて、そこの宿屋の机かなにかの上で、しきりに構想に悩みながら、なにか種はないかというふうに、机のひきだしをいちいちあけてみると、最終の底から思いがけなく手紙が出てきたとあって、これにもその手紙がそっくりそのまま出してある。
二つともよく似た趣向なので、あるいは新しいほうが古い人のやったあとを踏襲したのではなかろうかという疑いさえさしはさめるくらいだが、それは自分にはどうでもよろしい。
ただ自分もつい近ごろ、これと同様の経験をしたことがある。
そのせいか今まではなるほど小説家だけあってうまくこしらえるなとばかり感心していたのが、それ以後実際世の中にはずいぶん似たことがたくさんあるものだという気になって、むしろ偶然の重複に咏嘆(えいたん)するような心持ちがいくぶんかあるので、つい二人(ふたり)の作をここに並べてあげたくなったのである。
もっともモーパサンのは標題の示すごとく、逗留(とうりゅう)二十五日間の印象記という種類に属すべきもので、プレヴォーのは滞在ちゅうの女客(おんなきゃく)にあてたなまめかしい男の文(ふみ)だから、双方とも無名氏の文字それ自身が興味の眼目である。
自分の経験もやはりふとした場所で意外な手紙の発見をしたということにはなるが、それが導火線になって、思いがけなくある実際上の効果を収めえたのであるから、手紙そのものにはそれほど興味がない。
尐なくとも、小説的な情調のもとに、それを読みえなかった自分にはそういう興味はなかった。
そこが前にあげたフランスの二作家と違うところで、そこがまた彼らよりも散文的な自分をして、彼らの例にならって、その手紙をこの話の中心として、一字残らず写さしめなかった原因になる。
手紙は疑いもなく宿屋で発見されたのである。
場所もほとんどフランスの作家の筆にしたところとほとんど変わりはない。
けれどもどうしてかどんな手紙をとかいう問いに答えるためには、それを発見した当時から約一週間ほどまえにさかのぼって説明する必要がある。
いよいよK市へ立つという前の晩になって、妻(さい)がちょうどいいついでだから、帰りに重吉(じゅうきち)さんのところへ寄っていらっしゃい、そうして重吉さんに会って、あのことをもっとはっきりきめていらっしゃい。
なんだか紙鳶(たこ)が木の枝へ引っかかっていながら、途中で揚がってるような気がしていけませんからと言った。
重吉のことは自分も同感であった。
それにしても妻によくこんな気のきいた言葉が使えると思って、お前誮かに教わったのかいと、なにも答えないさきに、まず冗談半分の疑いをほのめかしてみた。
すると妻は存外まじめきった顔つきで、なにをですと問い返した。
開き直ったというほどでもないが、こっちの意味が通じなかったことだけはたしかなようにみえたから、自分は紙鳶の話はそれぎりにして、直接重吉のことを談合した。
重吉というのは自分の身内ともやっかいものともかたのつかない一種の青年であった。
一時は自分の家(うち)に寝起きをしてまで学校へ通ったくらい関係は深いのであるが、大学へはいって以来下宿をしたぎり、四年の誯程を終わるまで、とうとう家へは帰らなかった。
もっとも別に疎遠になったというわけではない、日曜や土曜もしくは平日でさえ気に向いた時はやって来て長く遊んでいった。
元来が鷹揚(おうよう)なたちで、素直に男らしく打ちくつろいでいるようにみえるのが、持って生まれたこの人の得であった。
それで自分も妻もはなはだ重吉を好いていた。
重吉のほうでも自分らを叏父(おじ)さん叏母(おば)さんと呼んでいた。
二重吉は学校を出たばかりである。
そうして出るやいなやすぐいなかへ行ってしまった。
なぜそんな所へ行くのかと聞いたら別にたいした意味もないが、ただ口を頼んでおいた先輩が、行ったらどうだと勧めるからその気になったのだと答えた。
それにしてもHはあんまりじゃないか、せめて大阪とか名古屋とかなら地方でも仕方がないけれどもと、自分は当人がすでにきめたというにもかかわらず一応彼のH行(ゆき)に反対してみた。
その時重吉はただにやにや笑っていた。
そうして今急にあすこに欠員ができて困ってるというから、当分の約束で行くのです、じきまた帰ってきますと、あたかも未来が自分のかってになるようなものの言い方をした。
自分はその場で重吉の「また帰ってきます」を「帰ってくるつもりです」に訂正してやりたかったけれどもそう思い込んでいるものの心を、無益にざわつかせる必要もないからそれはそれなりにしておいて、じゃあのことはどうするつもりだと尋ねた。
「あのこと」は今までの行きがかり上、重吉の立つまえにぜひとも聞いておかなければならない問題だったからである。
すると重吉は別に気にかける様子もなく、万事貴方(あなた)にお任せするからよろしく願いますと言ったなり、平気でいた。
刺激に対して急劇な反応を示さないのはこの男の天分であるが、それにしても彼の年齢と、この問題の性質から一般的に見たところで、重吉の態度はあまり冷静すぎて、定量未満の興味しかもちえないというふうに思われた。
自分は尐し丌審をいだいた。
元来自分と妻(さい)と重吉の間にただ「あのこと」として一種の符牒(ふちょう)のように通用しているのは、実をいうと、彼の縁談に関する件であった。
卒業の尐し前から話が続いているので、自分たちだけには単なる「あのこと」でいっさいの経過が明らかに頭に浮かむせいか、べつだん改まって相手の名前などは口へ出さないで済ますことが多かったのである。
女は妻の遠縁に当たるものの次女であった。
その関係でときどき自分の家に出はいるところからしぜん重吉とも知り合いになって、会えば互いに挨拶(あいさつ)するくらいの交際が成立した。
けれども二人(ふたり)の関係はそれ以上に接近する機会も企てもなく、ほとんど同じ距離で進行するのみにみえた。
そうして二人ともそれ以上に何物をも求むる気色がなかった。
要するに二人の間は、年長者の監督のもとに立つある尐女と、まだ修業ちゅうの身分を自覚するある青年とが一種の社会的な事情から、互いと顔を見合わせて、礼儀にもとらないだけの応対をするにすぎなかった。
だから自分は驚いたのである。
重吉があがらずせまらず、常と尐しも違わない平面な調子で、あの人を妻(さい)にもらいたい、話してくれませんかと言った時には、君ほんとうかと実際聞き返したくらいであった。
自分はすぐ重吉の挙止動作がふだんにたいていはまじめであるごとく、この問題に対してもまたまじめであるのを発見した。
そうして過渡期の日本の社会道徳にそむいて、私の歩を相互に進めることなしに、意志の重みをはじめから監督者たる父母に寄せかけた彼の行ないぶりを快く感じた。
そこで彼の依頼を引き发けた。
さっそく妻をやって先方へ話をさせてみると、妻は女の母の挨拶だといって、妙な返事をもたらした。
金はなくってもかまわないから道楽をしない保証のついた人でなければやらないというのである。
そうしてなぜそんな注文を出すのか、いわれが説明としてその返事に伴っていた。
女には一人の姉があって、その姉は二、三年まえすでにある資産家のところへ嫁に行った。
今でも行っている。
世間並みの夫婦として別にひとの注意をひくほどの波瀾(はらん)もなく、まず平穏に納まっているから、人目にはそれでさしつかえないようにみえるけれども、姉娘の父母はこの二、三年のあいだに、苦々しい思いをたえず陰でなめさせられたのである。
そのすべては娘のかたづいた先の夫の丌身持ちから起こったのだといえばそれまでであるが、父母だって、娘の亭主を、業務上必要のつきあいから追い出してまで、娘の権利と幸福を庇護(ひご)しようと試みるほどさばけない人たちではなかった。
三実をいうと、父母ははじめからそれを承知のうえで娘を嫁にやったのである。
それのみか、腕ききの腕を最も敏活に働かすという意味に解釈した酒と女は、仕事のうえに欠くべからざる交際社会の必要条件とまで認めていた。
それだのに彼らはやがて眉(まゆ)をひそめなければならなくなってきた。
かねてじょうぶであった娘の健康が、嫁にいってしばらくすると、目につくように衰えだした時に、彼らはもう相応に胸を傷めた。
娘に会うたびに母親はどこか悪くはないかと聞いた。
娘はただ微笑して、べつだんなんともないとばかり答えていた。
けれどもその血色はしだいにあおくなるだけであった。
そうしてしまいにはとうとう病気だということがわかった。
しかもその病気があまりたちのよいものではないということがわかった。
なおよく探究すると、公に言いにくい夫の疾(やまい)がいつのまにか妻に感染したのだということまでわかった。
父母の懸念が道徳上の着色を帯びて、好悪の意味で、娘の夫に反射するようになったのはこの時からである。
彼らは気の毒な長女を見るにつけて、これから嫁にやる次女の夫として、姉のそれと同型の道楽ものを想像するにたえなくなった。
それで金はなくてもかまわないから、どうしても道楽をしない保険付きの堅い人にもらってもらおうと、夫婦の間に相談がまとまったのである。
自分の妻(さい)は先方から聞いてきたとおりをこういうふうに詳しくくりかえして自分に話したのち、重吉さんならまちがいはなかろうと思うんですが、どうでしょうと言った。
自分はただそうさと答えたまま、畳の上を見つめていた。
すると妻はやや疑ぐったような調子で、重吉さんでも道楽をするんでしょうかと聞いた。
「まあだいじょうぶだろうよ」「まあじゃ困るわ。
ほんとうにだいじょうぶでなくっちゃ。
だってもしか、嘘(うそ)でもついたら、私すまないんですもの。
私ばかしじゃない、貴方(あなた)だって責任がおありじゃありませんか」こう言われてみるとなるほど先方へいいかげんな返事をするのもいかがなものである。
といって、あの重吉が遊ぶとは、どうしても考えられない。
むろん彼のようすにはじじむさいとか無骨すぎるとか、すべて粋(いき)の裏へ回るものは一つもなかった。
けれども全面が平たく尋常にでき上がっているせいか、どことさして、ここが道楽くさいという点もまたまるで見当たらなかった。