信
- 格式:doc
- 大小:57.00 KB
- 文档页数:14
- 1 - 手 紙
星 新一
夜。豪華な室のなか。上品な照明がやわらかい。広い床に敷かれたじゅうたんは厚く、壁を飾る絵も高価そうだ。重い材質の、がっしりと大きな机。
その机にむかって、ひとりの人物が椅子にかけ、考えごとをしていた。五十五歳ぐらいの男。服装も立派でととのっていた。彼は考えこみ、時どき無意識のように手をポケットに入れ、ふたたび出す。その動作をくりかえしていた。
ここはある官庁の官邸。すなわち、男は政府のきわめて重要な地位にある。彼は政治家として、思いきった施策をつぎつぎに打ち出し、大衆的な人気と支持もあった。その支持があるからこそ、思いきったことができたともいえる。
しかし、派手な行動というものは、ゆきづまりやすい。この男の場合もそうだった。無理押しの矛盾が少しずつつみ重なり、いまや苦しい局面におちいっていた。一方、世人の彼への期待は依然として強い。すぐにも、少なくとも数日中には、なんらかの打開案を発表しなければならない立場にあった。しかも、奇跡のような案をだ。だが、なんの名案も浮んでこない。
男はタバコをくわえ、二、三回ほど吸って、灰皿でもみ消した。なんということもなくメモ帳を開き、意味のない記号を書いて、それから破って捨てた。またポケットへ手を入れ、出した手を顔の前でひろげて、ぼんやりと見つめる。彼はいらいらしていたのだ。といって、対策の案が思いつかない絶望のためではなかった。男は待っているのだ。手紙を待っている。通信文を待っている。それが救いであり、希望であり、たのみのつななのだ。
その手紙が来さえすれば、いまのいらだちはたちまち消える。待つ。それは絶望そのものより、はるかにいらいらする。
手紙を待っている。それは手紙と称していいものかどうか、断言はできない。どこから送られてくるのかも、どうやって送られてくるのかも、なぜ送られてくるのかもわからないのだ。
だが、必ず来るのだし、必ず彼の目にとまることになっている。それは確信となっていた。いや、確信というよりも、顔のひげがのび、太陽が東からのぼり、枯れた木の葉が落ちるのと同じく、疑いようのない当然のことなのだっ - 2 - た。
おちついて待てばいいのだ。男は椅子の背にもたれ、目を閉じ、手紙のことを回想した。彼の人生において、その手紙に最初に接した時のことを……。
あれは大学を受験する半年ほど前のことだった。いまでも、なつかしく、
はっきりと思い出せる。
そのころの彼は、頭はさほど悪くはないが、個性のない少年だった。将来への野心とか自信とかいったものもなかった。ずっと遠くまでが見えてしまうような気持ちになる。
自分の前にひらけているのは、平凡な一本の道しかない。一生とは、これを歩きつづけることだけなんだ。そこを歩いている、将来の自分の姿が見える。平穏ではあるが、なんの感激もなく、惰性で歩きつづけている。そして、はるか道のはてには、とし老いて倒れている自分の姿さえ見える。
人生とは、それだけのことなのだろうか。それなら、この道を歩きつづけるのは、なんのためなのだろう。
少年はこの思いを持てあました。これを振り払いたいと願った。だが、頭をふったぐらいではどうなるものでもない。こういうものなのだと悟った心境になることもできず、奮起して心のなかで野心を爆発させることもできなかった。平凡な少年だったのだ。少年は街に出た。人ごみのなかをあてもなく歩きまわった。もしかしたら雑踏にまざっているうちに、この悩みをだれかが持っていってくれるかもしれない。そうでなくても、悩みがすりへってくれるかもしれない。このような思いつきだったのだが、あまり効果はなかった。
少年はさびしさにたえかねたかのように、なにげなくポケットに手を入れてみた。紙片が指にさわる。出してみると、字が書いてある。少年は人ごみからはなれ、ものかげに行ってそれを読んだ。その紙片には、なにか秘密めいた感じがともなっていたからだ。
十センチ四方ぐらいの、かすかに灰色がかった目立たない紙。やわらかい感触だった。
ある大学の名がしるしてあり、そこを受験せよと簡潔に書いてあった。少年はしばらく呆然とする。その大学への受験は、自分の才能を越えたことだと - 3 - 思い、これまで考えてもみなかったことなのだ。
もう一回、紙片に目を落す。やはり文面に変りはない。そして、付記のようなもののあるのを知った。読んだらすぐに焼きすてよ、このことをだれにもしゃべるな、だれにも気づかれるな、と。
少年はそれに従った。さからってはいけないようなものを感じたのだ。火をつけると紙片は音もなく、かすかな煙をあげて燃え、灰は微細な粉となって散った。
紙片は消えたが、少年の心のなかには変化がおこった。指示された大学を受けてみよう。ものはためしではないか。やってみよう。
それにしても、と少年は考えた。あの手紙を、だれがぼくのポケットに入れたのだろう。それはもはや調べようがなかった。なにかあたたかく力強いものにさわられたような気もする。その時に入れられたのだろうか。だが、はっきりはせず、それは気のせいかもしれなかった。
なんのために、どんな理由で、どうしてぼくのポケットに。それもまたわからなかった。謎の手紙。だから、とても神秘的な感じがした。
少年は決心をし、志望校を口にした。家庭でも、友人たちも、みなふしぎがった。むりだからよせ、と忠告する者もある。なんでまた、そんな気になったのだと、質問をくりかえす者もある。少年はそれには答えなかった。紙片の付記にあった指示だ。秘密にしなければならないことなのだ。そして、ぼくはそれを守る約束をした。
少年には目標ができた。はりあいのある日々がもたらされた。それにむかって努力をし、その大学に入学することができた。うれしさはもちろんだった。と同時に、前からきまっていたことのような気もした。だが、あの手紙に接しなかったらと思うと、説明のしようのない複雑な感じにもなる。
大学時代、学年が進むにつれ、彼の心のなかでは、かつての手紙の記憶がうすれていった。あれは錯覚だったのだろう。幼い頃に暗闇のなかに見たと思った怪物のようなものかもしれない。そんなふうに考えたりもするのだった。
卒業が近づき、就職をきめなければならぬ時期となった。そのようなある日の夕方、彼はポケットのなかに、またも紙片を見出した。だれに入れられた - 4 - のだろう。心当りはなかった。注意の空白の瞬間をねらってなされたのだろうか。いや、泉がわき出すように、大地から芽が出るように、ごく自然にポケットのなかに出現したという感じだった。
ある企業の名がしるされ、そこへ就職せよと書かれている。例によって、すぐに焼きすてよとの付記も。
以前のことが鮮明に頭によみがえり、彼は反射的にそれに従った。他人に見せることが大変な裏切りであり、冒涜のように思えたからだ。これはいい手紙なのだ。そんなことをしたら、この通信はこれきりになってしまうのではないかとの恐れも感じたのだ。
彼はその企業の入社試験を受け、合格し、青年社員となった。そして、順調だった。働きがいのある月日が流れる。
順調な日々の連続は、また彼に手紙のことを忘れさせる。現在の状態はすべて自分の実力なのだ、才能なのだ、と。ほかからの指示のおかげなんかではない。あの手紙は、自分の決意のあとだったような気もする。自分がなにげなく書いたメモを、自分でポケットから出して読んだのにちがいない。
傲慢ともいえた。たが、それは青年期の特性であり、順調さの示す特性でもあった。それでいいのだ。
やがて、青年は恋をした。これまでにも女友だちは何人かおり、恋愛めいたことの経験はあった。だが、こんどのはとくに激しく燃えた。相手の女性の家庭が上流階級に属し、そのことが彼をためらわせ、ためらいが恋の炎をあおる形になったのだ。
傲慢さはしりぞき、煩悶がとってかわった。自分の家柄がもっとよければなあ。あるいは、それをおぎなうだけの図々しさが自分にもあったらなあ、などと思う。いや、図々しさがあって、明確にはねつけられる結果になったら、さらに悲しい。このままのほうがいいのかもしれぬとも考える。閃光と闇とが交錯したなかにいるような、おちつかぬ日々だった。
自分を持てあまし、心が疲れはてた時、青年のポケットからまた例の手紙が出現した。その女性をめざせと書かれた紙片だ。
彼は見つめた。いったい、だれがよこす手紙なのだろう。個性のないよう - 5 - な、それでいて、ものすごく強烈な個性を押しかくしているような筆跡。こんな字を書けるような人がいるのだろうか。その神秘さが、なにかさからえない力となって迫ってくるのだ。
それに、この紙質。こんな紙は見たことがない。やわらかく、目だたぬような色で……。
だが彼は、そのせんさくをやめた。黄金の卵をうむ鳥の腹をさくようなことになりかねない。それに、調べることは非礼に当るように思える。この手紙の差出人は、ごく身近にいて、自分を見つめているのかもしれない。よけいな好奇心を起すと、それはすぐに察知され、もはや二度と……。
一瞬そんなけはいを感じ、青年は紙片を焼きすてた。あとにはなにも残らない。恋に苦しんだあげくの、うたたねの夢だったような気もする。だが、夢とはちがう。夢ならさめてから五分もすると忘れるが、この場合、彼の心のなかで決心がめばえはじめていた。
青年は勇気を出してその女性との交際を進め、結婚へとそれは結実した。いい妻であり、その親類は有力者が多かった。やがて子供もうまれる。彼は満足だった。
こういうのをエリート・コースというのかもしれぬ。夢のようなことだなとも思う。だが、実力あってこその幸運ではないかとも考える。才能への自信感が高まり、気分のはれやかな夜など、ウイスキーでも飲みながら、例の手紙のことを妻に冗談めかして話したいという誘惑にかられる。
しかし、それは口に出す寸前に思いとどまるのだ。すべては他言しないという誓いのおかげではないか。この契約にそむいたら、どうなるだろう。現在の幸運が、音をたてて一挙にくずれ落ちるかもしれない。そうはならなくても、手紙のおとずれは永遠になくなるだろう。やはり、言うべきではないのだ。
幼いわが子を抱いてあやす時にも、男はそれを口に出さなかった。まだ言葉のわからない幼児が相手でも、約束を破る行為であることに変りはない。自己に課したきびしい戒律なのだ。
めぐまれ充実した生活がつづき、つとめ先でも失敗をせず、男は昇進をした。 - 6 - しかし、ある日、またポケットに手紙があらわれた。転職せよ、とある。ある業績不振企業の名がしるされ、そこへ移れとある。
例によって、男は読んだあと、それを焼きすてた。読まずに焼きすてたかった。こんどは悪夢のような気分だった。なぜ、いまの順調さを捨てなければならないのだ。へたをしたら、破滅への道をたどることにもなりかねない。
これはなにかのまちがいだ。しかし、いまの文は目の底に、頭の奥に、心の壁にすでに刻まれてしまっている。もはや消しようがない。
聞きかえし、わけをたずね、確認したかった。だが、郵送された手紙とはちがうのだ。こちらから連絡をとる方法がない。無視するか、従うか、二つに一つしか道はない。