日语30篇作文
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日本語作文お誕生日私の誕生日は4月23日です。
今年の誕生日で私は30歳になりました。
私はその日、友達と一緒に誕生日バーティーをする支度をしました。
まず、カフェをかりきりました。
そしてそこをきれいにかざりました。
バースデーケーキにろうそくを21本たてました。
それから私が好きな紺色のワンバースをきました。
5時からバーティーを始めました。
友達が沢山来てくれました。
そしてみんな私に「おめでとう!」と言ってくれました。
私がケーキに立ててあるろうそくの火を消す時,シャンベンの栓をぬいてくれました。
そして,人形や香水や絵など,いろいろなブレゼントをくれました。
それから歌をういながらビールを飲んだりスケーキを食べたり,ゲームをしたりして過ごしました。
自己紹介私は中国から来た「僕の夢」です。
今島根にある寮に住んでいます。
外国人は私一人です。
ですから,はじめの頃は言葉や食事のことなどでとても苦労しました。
お風呂に入る時も恥ずかしくて嫌でした。
でも,今はもうすっかり寮の生活にも慣れて,みんなと仲良くなりました。
私は料理が得意なので,休みの日は,寮の友達にご馳走します。
すると,みんなとても喜んでくれます。
私は好奇心が強くいろいろなことを体験してみたいと,いつも思っています。
それで,以前から興味のあった日本へ来たのです。
今熱中していることは生花です。
次は,お茶をやってみたいと思っています。
日本へ来る前は,病気に勤めていました。
日本語の勉強が終わって帰国したら,日本語や日本で学んだ事をどんどん仕事に生かしたいと思っています。
私は住んでいる部屋日本は土地の値段が非常に高い。
そのため,家を建てるにも部屋を借りるにも,かなり費用がかかる。
私が今住んでいる部屋も,私の国と比べると,かなり高い。
6畳の部屋に2畳くらいの台所トイレが付いて3万円である。
風呂付きの部屋が欲しかったが。
高すぎて借りることができなかった。
今でも少し残念に思っているが,仕方がない。
私の梦かつて、ナポレオンが「将军になる考えがない兵士はいい兵士じゃない」と言いました。
そのとおり、梦がない人生は人生ではありません。
子供の时から、亲や先生や友达などいろいろな人が「あなたの梦はなんですが」と闻きました。
理の当然で、人々がさめざまの梦想を持っています。
私も梦がたくさんあります。
小学生制になった时、クラス担任はとても优しくて、若い女性でした。
みんなだいすきでした。
彼女は数学を教えてくださったので、私は一生悬命顽张りました。
长い时间を使って、ひとつの难问に回答した後の気持ちはとても高扬していました。
心から数学の教师にならたいと思いました。
両亲も喜んで応援してくれました。
12歳、中学校に入りました。
その顷田舎の家の近くで伝统的な芝居がはやっていました.祖母も好きで、周末一绪に见に行きました。
そして、私はだんだん、その芝居に梦中になりました。
时々、真似たり、一人で歌ったりしました。
何时でも。
何処でも、音楽が闻こえると、特别な感铭がありました。
いつの间にか、俳优になりたいという考えが出てきました。
私は音痴ですから、両亲に知らせると、「白昼梦を见るじゃないよ」と言われました。
今思えば、当时は思春期だったからなのか、悲しいことに自分の考えに固执しました。
时间がはやくたちました。
瞬く间にもう大学生になりました。
今、専门が日本语の私はまた一つの梦があります。
その梦とは外资企业に勤めることです。
通訳でも翻訳でもいい出です。
そうすると「将来はなにをする?数学を教える?それに俳优になる?あゆいわ日本语に関して仕事をやる?」といろいろな问题が思い出されました。
あれこれと思いを巡らすと、难しいですね。
答えはなかなか出てきませんでした。
ところが、そんな梦がたくさんあるので、生活が面白い、目标に向かってまい进する力が强いです。
梦は多ければ多いほど実现する机会も増えると思います。
一つの梦が破れても、また别の梦を追うチャンスがあるからです。
私は大学院生で、后1年で卒业します。
今は梦を実现するための知识の吸収に専念しています。
勉强することは大変ですけれども、授业を通して色々な知识、専门を理解することや先生とのつながり、友达とのつながりができることが学びの大事な意味だと思います。
大学は、自分の兴味あることを追求できる场だと思います。
これからの出会いを大切にし、感谢の心を忘れることなく、谦虚に、そして人を想い、なにより自分を大切にし、様々なことを経験していきたいと思っています。
大学で习った知识を活用して、自分の目标を达成できるように顽张って行きたいと思います。
実は卒业してからの生活はどうなるかについて、ちょっとはっきりしていない状态もあります。
今まで18年间学生时代でしたが、これからいよいよ社会人になりますが、憧れもあるし、心配ももちろんあります。
学生时代は本当に悩みのない时代でしたが、社会に入って、経験の浅い青年で、これからきっと色々なトラブルがあるのではないかと心配しています。
でも、今まで毎日宿舎~教室~食堂~図书馆~宿舎の缲り返している暮らしはやっと终わらせ、これから社会人の一员として、独自で色々な出来事に直面して、色々な人と付き合って、チャレンジできることも楽しみです。
まだまだ学ばなければならないことがたくさんありますが、社会の大讲堂で、色々な知识、また能力を身に付けて、梦に向かって着実に前进して行きたいと思います。
なんと言っても楽しめそうです。
后一年间ですが、もう少し充実な大学生活を楽しみながら、将来のことを企画しなければなりません。
私は将来の生活に大きな期待をしています。
自分の幸运も祈っています。
わたしたちの生活と情报情报は、私たちの生活に深く関わり、様々な影响を与えている。
コンピュータ等の情报机器が社会の様々な分野に入り込み、日常生活にも大きな変化を齎している。
私たちは、さまざまな手段を通して、情报を得ることができ、生活の向上・充実に役立てている。
りんごりんごは果物だ。
栄養価も高い果実として食されてできる。
りんごは食物繊維やビタミンC、ミネラル、カリウムが豊富だ。
「1日1個のリンゴは医者を遠ざける。
」とい言われている。
りんごは、シャキッとした歯応えと程よい酸味&甘さが味わえる果物だ。
生食はもちろん、加工品として食されることもある。
りんごを使った加工品といえば・・・ジュースやアップルパイ、ジャムなどが有名だ。
また、カレーなどの煮込み料理に用いられることもしばしばある。
カレーに関しては、旨味を引き出す“隠し味”として用いる人が多いそうだ。
私の友達私の友達の名前は頼さんです。
彼は背が高くて、性格もいいです。
彼は幼いころからの友達です。
昔、私だちはしばしば一緒に遊びました。
中学の時、私は数学の成績が悪いでしましたから、彼はわたしに数学を敎えてくれました。
時々、私は彼の部屋へつれて行ってもらいました。
そして、宿題を助けてもらいました。
私の数学の成績が止がり、彼に感謝しています。
今も、毎日一緒に勉強して、ごはんをたべます。
今年、私は彼の誕生日にプレゼントを買ってあげんました。
彼はとても喜んでいました。
私のある一日大学に入ってから、時間のたつのがとてもはやく感じられて、あっという間に一日が終わった。
ある日、授業がなかった。
雨が降っていた。
学生寮にこもっていると、どうも眠くて集中に勉強できないから、図書館に行くことにした。
もっと効率的に勉強できるために、私は前もって図書館で使う本などを準備しておいた。
本を整理しながら、友達にも電話で誘った。
試験に参加するから行かなくなると言われて残念だった。
しょうがないから一人で行くしかなかった。
ジュースも用意しておいた。
必要なものは全部そろった後、図書館へ向かった。
雨が止むまでにずっと図書館で勉強するつもりだ。
夕方ごろは晴れになったから学校近くのレストランに行った。
食事をしたあとで散歩もした。
一日の大部分は図書館で真剣に勉強していたのですっかり疲れた。
作文范例16篇問題1あなたは、外国の人があなたの国の母語で語りかけてきたとき、文法や言葉遣いが間違っていたら直してあげますか。
それとも失礼になると考えて言わないでおきますか。
解答直してあげる私は間違っていたら直してあげる。
なぜなら、言葉の誤用の中には、相手の誤解を生んだり心を傷つけるような言い回しがあり、その不用意な一言のせいでコミュニケーションに障害が生じるとしたら、本人にとっても不幸だと思うからだ。
例えば、日本語の「あなた」という言葉は目上の人に使うと失礼になるが、欧米の人たちは誰彼の区別なく「あなた」を使う。
それが初心者ならまだ許せるが、ぺらぺらしゃべる外国の人に「あなた」と言われたら、日本人は間違いなくむかっとするだろう。
それは母語と関係しているのであり、何の悪意もないのだが、言われた日本人はいい気持ちがしない。
こうした誤用は誰かが指摘してあげなければ、いつまでも直らない。
従って、異なる言語や文化を持った者同士のコミュニケーションが大切な時代には、自分が間違っていたら指摘してもらうし、相手が間違っていたら指摘してあげるといった率直さが美徳となると思う。
問題2ある外国の人は「日本人は『はい/いいえ』がはっきりしないから、理解しにくい。
日本人はもっとはっきり意思表示をするべきだ」と言います、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。
解答賛成する私はこの意見に賛成である。
確かに日本人は「はい/いいえ」をはっきり言わない傾向がある。
それは相手の気持ちを傷つけないとする「和」の文化と言われるものだろうが、私たち外国人には賛成なのか反対なのか、好きなのか嫌いなのか、とても判断しにくい。
例えば、以心伝心とか、言葉を使わずに察しあう習慣は、日本社会のような同質性の高い同一民族社会では可能かもしれないが、私の国中国のように文化が異なり、言語が異なる多民族が暮らす社会ではほとんど不可能だと思う。
きちんと意思表示しなければ、コミュニケーションが成立しないのである。
我的故乡本篇文章来源于你我日语网原文链接:/kaoshi/9425.html ある日、友達とラーメン屋で食事したとき、友達が餃子を注文した。
昔は故郷でよく餃子を食べていたので、その時ひとつの餃子を口に入れたとたん、久しぶりに故郷の味が心に来た。
もう日本に来て三ヶ月経った。
さびしいとき、かなしいとき、よく故郷の様子を思い出した。
私は中国の東北で生まれた。
上海や北京のにぎやかさと違って、故郷はみんながびんぼうに暮らしている。
私はこのびんぼうな町で生まれて育った。
石炭は故郷の名物だ。
私も石炭のおかげで肌が黒っぽくなった。
そこにはアジアで一番大きい石炭開発場がある。
100年前、人々はそこで石炭を開発した。
そして今まで開発されてきた。
もう100年が経って、石炭がなくなってしまった。
昔は石炭のおかげで、みんなはしばらく豊かな生活ができた。
でも、石炭がなくなった今日は、みんな再びびんぼうになってしまった。
昔は石炭で豊かなとき、政府にたくさん税金を払ったけれど、残念なことに、今びんぼうになった故郷は政府の助けをぜんぜんもらえなくなった。
政府はたくさんの投資を上海に与えたが、故郷は無視された。
でも、みんなは我慢して、自分の力で生きている。
びんぼうでも強く生きている。
その強い意志を持っている東北人を私は深く愛している。
自分は東北人としてとても光栄だと思っている。
少しの投資でもいい、少しの進歩的な技術でもいいから、故郷に注いだら、きっと昔のゆたかな都市の光景に戻るだろう。
今の闇はしばらくだ。
その先きっと光がある。
昨日七夕だった。
私も紙を書いて、枝の上に貼った。
紙に「故郷の人々が幸せな生活を過ごせるように」という文を書いた。
今、私は日本で一生懸命勉強している。
いろいろな知識や技術を身につけて、将来故郷に帰って、みんなと一緒に自分の力で、新しく豊かな故郷を作りたい!我的梦想迎えて新年新しく望みます“新しい1年”は子供がまだ大人なのに関わらずにとって、すべて意义は并外れています。
一年半前に私は人文大学に入学しました。
入学したばかりのころは、とまどうことが多くありました。
中学生や高校生の時は、先生が何でもやさしく丁寧に指導してくれましたが、大学では自分から積極的に勉強しなければ授業についていくことが難しいです。
課題の提出が多いので、モンゴル人の学生は授業の後、図書館へ行って調べごとをしたり、うちに帰って家事をすませたあとも宿題をするために夜遅くまで勉強しなければなりません。
日本やアメリカなどの大学では単位制で必修科目でも比較的自由に自分の好きな科目を履修できます。
しかし、モンゴルの大学ではそうではありません。
モンゴルの大学は小さいですし、特に私が学んでいる学科は人数が少ないですので、自分が好きな科目だけを履修することはできません。
大学が指定した授業を履修しなければなりません。
この点では他の国の大学より悪いと言えますが、同じ学年の同じ学科の学生が同じ授業を履修するわけですから、クラスメイトとの仲は深まります。
授業が始まる時間も終わる時間も同じです。
放課後に一緒に図書館へ行って勉強したり、大学に残って授業でわからなかったことをお互いに教えあったり、試験勉強をするためにクラスメイトのうちで徹夜で勉強したりといい影響もあるといえます。
大学の時間割の関係で、私達2年生は午後から授業が始まります。
朝起きて、大学へ行き図書館で授業の予習や課題をして、12時から2つか3つの授業を受けます。
放課後の過ごし方は学生によってさまざまです。
塾やコースで習い事をする人、スポーツのサークルに参加する学生もいます。
私は授業が終わった後にいつも英語のコースに通って勉強をしています。
日本語を学んでいる人はたくさんいます。
日本語がうまい人でも就職が見つからないことも多いです。
英語も日本語も両方よくわかる人はモンゴルではまだ少ないので、私は日本語も英語もできる通訳翻訳士を目指して頑張っているのです。
うちに帰ったら今度は家事です。
李さんの手紙小野さんわたしは今京都にいます。
おととい新幹線で来ました。
京都は今紅葉がとてもきれいですよ。
京都の紅葉は本当にすばらしいですね。
わたしは日本の季節の中で,秋がいちばん好きです。
小野さんはどうですか。
京都にはお寺や神社がたくさんありますね。
おとといは金閣寺や八坂神社など、いろいろな所へ行きました。
天気がよかつたですから,観光客がたくさんいました。
どこもとてもにぎやかでした。
昨日は奈良へ行きました。
奈良もお寺が多いですね。
でも,京都より静かでした。
昨日は雨でしたから,観光客があまりいませんでした。
東大寺で大仏をみました。
本当に大きかつたです。
びつくりしました。
小野さんは,京都と奈良と,どちらが好きですが。
小野さんにお土産を買いました。
とてもきれいな紅葉の絵はがきです。
明日の夜帰ります。
では,まだ。
十一月二十五日李秀麗吉田課長吉田課長は今居酒屋でビールを飲んでいます。
吉田課長は東京の郊外に住んでいます。
結婚していて,子供が2人います。
奥さんは明るくて楽しい人です。
そして料理が上手です。
上の子は女の子で,中学生です。
おとなしくて優しいです。
下の子は男の子で小学生です。
体はあまり大きくないですが,とても元気です。
吉田課長は会社員です。
毎朝六時半ごろ家を出ます。
家から会社まで,片道二時間半かかります。
駅までバスで行って,電車に乗ります。
そして,途中で1回乗り換えます。
いつも本を持っていて,電車に乗ってから,必ず本を読みます。
一週間に3冊ぐらい読みます。
吉田課長は1日20本以上タバコを吸います。
しかし,駅も電車の中も禁煙です。
タバコを吸ってはいけませんから,吉田課長はいつも我慢します。
駅から会社までは歩いて5分ぐらいです。
毎朝会社の近くの喫茶店に寄って,コーヒーを飲みます。
吉田課長は毎晩六時ごろ会社を出て,八時半ごろ家に着きます。
でも,週に1回,飲みに行きます。
毎週金曜日は,お酒を飲んでから帰ります。
watasi no yumeわたしのゆめ的梦想watasi no yume wa syourai kyousi ninaru koto desu.nazenara tiisaikoro kaわたしのゆめはしょうらいきょうしになることです。
なぜなら、ちいさいころか的梦想是将来成为一名老师。
因为小时候ra kyousi he akogare takara. ituka jibun mo kyousi ninatte minnani tisiらきょうしへあこがれたから。
いつかじぶんもきょうしになって、みんなにちし就非常向往老师。
想着什么时候也是一名老师,不但ki o osie hitonari no koto mo jisin no koudo de mitibiru to omotte imasuきをおしえ、ひとなりのこともじしんのこうどうでみちびるとおもっています。
教大家知识,也以自身的行动来告诉大家做人的道理。
imaha doryoku si mazu jibujisi no nouryoku o agede yumeni ippo zutu tiいまはどりょくし、まずじぶじしんののうりょくをあげで、ゆめにいっぽずつち现在,要努力学习,提高自己的能力,一步一步接近katuite to negatte imasu tamarazu ni ganbatteireba ituka kitto tadoriかついてとねがっています。
たまらずにがんばっていれば、いつかきっとたどり自己的梦想。
只要不懈地努力,相信终有一天能实现自己的梦想。
tuku desyouつくでしょう日本頑張って~日本の地震のニュースを見た、昨日、友ただちからメールをが届き、皆無事で、よかった~この間、世界各地でも地震もが多いそうだ。
今度の日本の地震も大変だ、今日一日、中国でも日本の状況を報道していた。
ウェブサイトで皆は日本に祈っている。
日语作文30篇私の梦かつて、ナポレオンが「将军になる考えがない兵士はいい兵士じゃない」と言いました。
そのとおり、梦がない人生は人生ではありません。
子供の时から、亲や先生や友达などいろいろな人が「あなたの梦はなんですが」と闻きました。
理の当然で、人々がさめざまの梦想を持っています。
私も梦がたくさんあります。
小学生制になった时、クラス担任はとても优しくて、若い女性でした。
みんなだいすきでした。
彼女は数学を教えてくださったので、私は一生悬命顽张りました。
长い时间を使って、ひとつの难问に回答した後の気持ちはとても高扬していました。
心から数学の教师にならたいと思いました。
両亲も喜んで応援してくれました。
12歳、中学校に入りました。
その顷田舎の家の近くで伝统的な芝居がはやっていました.祖母も好きで、周末一绪に见に行きました。
そして、私はだんだん、その芝居に梦中になりました。
时々、真似たり、一人で歌ったりしました。
何时でも。
何処でも、音楽が闻こえると、特别な感铭がありました。
いつの间にか、俳优になりたいという考えが出てきました。
私は音痴ですから、両亲に知らせると、「白昼梦を见るじゃないよ」と言われました。
今思えば、当时は思春期だったからなのか、悲しいことに自分の考えに固执しました。
时间がはやくたちました。
瞬く间にもう大学生になりました。
今、専门が日本语の私はまた一つの梦があります。
その梦とは外资企业に勤めることです。
通訳でも翻訳でもいい出です。
そうすると「将来はなにをする?数学を教える?それに俳优になる?あゆいわ日本语に関して仕事をやる?」といろいろな问题が思い出されました。
あれこれと思いを巡らすと、难しいですね。
答えはなかなか出てきませんでした。
ところが、そんな梦がたくさんあるので、生活が面白い、目标に向かってまい进する力が强いです。
梦は多ければ多いほど実现する机会も増えると思います。
一つの梦が破れても、また别の梦を追うチャンスがあるからです。
さっきも言いましたように、梦を持つと问题が出てくることは否定できません。
ですが、やはり、私はこれからも梦のある美しい生活を大切にしていきます。
「私の梦」(日本人は理想よりも、梦と言う言叶を使っていると思いますので。
)私はまだ子供のころ、空を见上げることが大好きでした。
青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを见て、心が愈されるような気がします。
ですから、私はそのとき、「将来パロットになりたい」と心で决めました。
飞行机にのって、鸟のように、空を、云の间を缝いでいくことを、すばらしく思っていました。
头が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。
まだちっちゃいので、パロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。
その后、パロットはみんな2.0以上の视力がなければならないと闻いて、近视眼である私はただ、空しく叹くしか、しようがありませんでした。
高校に入って、私はサッカーに兴味を持ち始めました。
サッカー选手たちが、竞い合っている姿に、私は惚れていました。
あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。
そして同时に、新たな梦が私の心に芽生えました。
それは、「中国一のゴールキーパーになって、中国チームを世界の顶点に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。
しかし、それには、身长が必要です。
1.80ちょうどの私には、中国一は无理だったのかもしれません。
大学に入って、身长がほぼ固定された私の新たな梦は、无残にも破られてしまいました。
日语大学では、日本语を専攻しました。
正直、初めの顷は、梦なんて、まだ见つけていません。
目の前の道をただ走るのみ、そこには私の梦とか、意志とか、ありませんでした。
勉强していく中で、ちょっとした问题に気づきました。
それは、必死に勉强している人ほど、成绩が低く、ということでした。
そのとき私はこっそり考えました。
実は彼らは努力が足りないってわけではありません。
努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。
残念なことに、彼らは勉强の仕组み、つまり勉强の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の学习を缲り返しているです。
そこで、私は「将来日本语の教师になって、知识だけではなく、勉强の仕组みを、御绍介させていただきたい」という、梦を持つようになり、そして今までに至っています私の趣味はスポーツをやる事です。
色んなスポーツ中にサッカーが大好きです。
普段少なくとも周に1回やっていました。
最近、勉强忙しいですから、なかなか暇な时间が取れなくなりますので、殆どやっていませんでした。
でも、サッカーのことを関心しております。
毎周必ずスポーツ新闻を読みます。
ちょっと残念ながら、最近、中国のサッカーチームは国际试合で全灭になりそうだ。
我的兴趣1我的兴趣是运动。
在各种运动项目中,我最喜欢的是足球。
平时至少一周打一次。
最近学习比较忙的缘故,抽不出空余时间,几乎不打了。
但是,很关心足球的新闻,每周的体育报肯定会去看的,有点可惜的是,最近中国队在国际比赛项目上好像全军覆没。
私の趣味2仆の趣味は音楽鉴赏でございます。
もちろんポピュラー音楽が大好きですけども、普段にクラシック音楽もよく聴きます。
いつも部屋で音楽を聴きながら、文章を书きます。
もし、何か悩んでいることがあれば、好きな音楽を聴いて気持ちが落ち着けます。
我的兴趣2我的兴趣是音乐鉴赏。
当然了,我最喜欢的是流行乐,但是平时我也经常听听古典音乐。
平时都是在屋里一边听音乐,一边写文章。
如果有什么烦心事的话,听听自己喜欢的歌,心情可以平静下来。
私の家庭私の家は三人の家庭です. お母さんとお父さんと私です.私の母は病院の看护妇です. 毎日八时に病院へ行きます, 午后六时に家に帰ります. 母は中华料理がとても上手です.私の父は大学の先生です. 化学の専门を授业しています. 本を読むことが好きで,テレビが好きないです.私は大学の学生です. テレビを见ることが好きで, スポツが上手です.私の家庭が楽しい家庭です. 私は父と母とよく一绪に游びに行ったり, 山を登ったりします.日语作文我的家乡私は上海に生まれました。
故郷は上海だと思います。
上海は中国の中では、最も都会らしい都会です。
上海には名所名迹が少ないが、中国最大の商业、工业、港湾地帯として特徴づけられている。
今、上海の人口がもうすでに1250万人を超え、世界一のマンモス都市となった。
改革开放によって、上海が大きく変わりつつある。
毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに惊き、上海の一员として、夸りと喜ぴを持っている。
上海は长江の南侧、支流の黄浦江の西侧に拓かれた街だ。
今世纪の初めに黄浦江西侧のバンドと呼ばれる地区は、港湾设备が整备され、その周辺に各国の租界か集中されていた。
上海はまた「冒険家の楽园」と呼ぱれ、このバンドは国内だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず访れる所となっている。
バンドは上海・シンポルとも言え、バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ风格を持ち、「万国の建筑物」と言われる。
バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な南京路がある。
东京の银座より人がいっぱいで赈やかである。
南京路にある第一百货店は毎日20万人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30万人を超えるほどだ。
さらに、夜のバンドと南京路はまた格别だ。
ネオンサンがまぷしいほど辉き、日本人は上海の夜景を「五つ星」と绝賛している。
谁にも故郷がある。
故郷を离れれぱ离れるほど故郷が恋しくなるのが人情だと思う。
上海に帰る回数が増えれぱ増えるほど恋しくなる私の大好きな上海である私の家族私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。
父、母とかわいい私です。
父は见るのがちょっと厳しいですが実は日常の生活中に时々人に笑われることをします。
母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが私と父に対して母はいないと生活ができない人です。
私は幸せな家庭があって未来両亲は私に対して最重要な人です。
私は父と母を爱しています。
十一黄金周もう终わったこの十一の节句は私に対していい休みを过ごしました。
1日は亲戚のうちへ游びに行きました、2日は中学校の友达と一绪に歌を歌いました、3日は両亲と一绪に买い物に行きました、4日は日本语の授业をしました、5日の午前中大学のクラスメートと一绪に卓球をして午后ゴルフをしました、6日はもっと多いクラスメートと一绪にスキーに行きました、8日の学校へ通うことを迎えるために7日は一日中うちでゆっくり休みまして本当に充実しました。
「泥雨」今年の夏に南京では、不思議な「泥雨」は二回があった。
不思議な「泥雨」というのは、普通の程度の灰雨ではなくて、生まれて初めて見た、すごく多くの土砂を混じえた雨なのだ。
一回目は夜のことだった。
朝、起きてから、ベランダでは、干された洗濯物はみんな斑になっていたのに、多くの南京人がびっくりした。
二回目は、午後のことだった。
その日の午後、スーパーへ買い物に行った私は、帰りに、空は急に黄色くなったのに気がつくと、大雨が降り出した。
私は道端の店へ急いで、雨宿りできたが、自転車にのる人たちはたいへんひどい目に会った。
あっという間にほとんどの人は「縞馬」になってしまった。
翌日の新聞によると、「西部の内マンゴルのほうからの影響だ。
」ということだった。
なぜかそんなに多くの土砂はここまで運ばれてくることができたのか。
ちょっと疑問を抱いた。
八月の末に、大学の「西部考察団」に参加して、西部環境を調べてきた友達にこう言われた。
「西部は、もう人間の想像できる限り以上破壊された。
」それで、いろいろな写真を見せてくれた。
その中に、いくつの写真は土の色を背景として、二三本の木が混ざった広々としたばかりの空き地だった。
「二十年前にここは森だったのに、」彼は言った。
私は無言だった。
答えはここのだ。
森林を無闇に乱伐して、砂漠化の拡大を招いたのだ。
いや、もっと考えられるのは、その森林破壊は西部にあるだけではないだろう。
そうではなければ、なぜかその土砂は遠く東にある南京にまで運ばれたことができたのだろう。
それは、森林破壊からの砂漠化の拡大によって、多くのところは不毛の地になってしまい、土砂を混じえた大風は起こされ安くなって、また、一部分の土砂は気流運動に乗って、途中で余り阻止がなっかたから、大きな顔をして、都市まで来られて、「泥雨」に変わったわけだ。
森林破壊はこうした土砂を混じえた「泥雨」をもたらすのであるばかりではない。
空気にある二酸化炭素の効率よく循環ができなくなって、地球温暖化をも招くのだ。