第二课 ひとつ屋根の下で
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1、初めて経験した梅雤で、まるで家中が a した感じだ。
a じめじめb ぬるぬるc つるつるd さらさら2、小さい子どもの話でも、ちゃんと b やるのは親の勤めだ。
a 耳につけてb 耳を傾けてc 耳にたこができるほど聞いてd 耳がいたほど聞いて(三)質問3、那本来就不是你插嘴(口出しする)的地方。
不要忘了,你终归(あくまでも)不过是局外人(第三者)。
それは本来あなたが口出しすべきことではない。
あなたはあくまでも第三者にすぎないということを忘れてはならない。
第二課ひとつ屋根の下で(一)次の各文を完成しなさい。
4、Q:「柔道は国際化した」(P2、12行目)とあるが、筆者はどのようなことを「国際化」の根拠にしているか。
A:オリンピック種目に加えられ、外国選手が優勝するようになったこと。
5、Q:「文化際性を獲得してゆく」(P2、下から12行目)とあるが、それはどのようなことか。
A:元の文化から切り離され、異なった文化の人々の間で流通すること。
6、勉強しなければいい成績はと言われると、怠け者の私には c 。
a 顔から火が出るb 腹が立つc 耳が痛いd 雲をつかむようだ7、今朝起きた時にも何ともなかったが、さっきから突然痛み出した?めまいがしている。
8、Q:「このことは、まことに重大な結論をみちびきだすものである」(P1、下から1行目)とあるが、「このこと」とは、具体的にどのようなことか。
A:日本語が地域共通語となり、日本語を母語としない人々同士のコミュニケーションの手段として用いられるということ。
9、勉強しなければいい成績はと言われると、怠け者の私には c 。
a 顔から火が出るb 腹が立つc 耳が痛いd 雲をつかむようだ10、目的もなく、毎日 b した生活を送る。
a にやにやb だらだらc わくわくd ぎゅうぎゅう11、Q:「『欅』をお年寄りがひっそり暮らすような場所にしたくなかった」(P23、本文終わりから9行目)とあるが、「お年寄りがひっそり暮らすような場所」とは、どんな場所か。
第一课世界の中の日本语目前全世界范围内并无广泛使用的世界通用语,英语、法语、拉丁语等语言虽然在一定区域内广泛通行,但没有一种语言能够覆盖全世界。
确切的说,有一些语言在地球的某些地域内成为了地区通用语。
比如苏联地区的俄语,中国及东南亚地区的汉语——主要指的是其中的“普通话”,东非地区的斯瓦希里语等。
至于日语,则正站在成为地区通用语这条道路的起跑线上。
在东亚、东南亚、西太平洋一带,日语越来越成为沟通交流的语言纽带。
随之而来的是日语学习者的增加,以及日语的普及。
然而问题是存在的。
使用地区通用语的人和不使用的人之间,是无法顺利交流的。
以日语为例,日本人与中国人,日本人与泰国人,日本人与澳大利亚人之间,就无法使用日语交谈。
当然还有一种情况:一个泰国人和一个澳大利亚人相遇,或许他们会使用日语交流。
所谓的“国际语”便是这么回事。
遇到外国人时用什么语言与其沟通,对这个问题的研究才刚刚起步。
日本人在和泰国人对话时常使用英语,而遇到意大利人时说法语比较方便易懂,这种现象使人们开始思考此类问题。
当然对英语人群和法语人群不需要进行研究,这是因为英语和法语已经相当的国际化了。
简单的说,日语被外国人用来互相交谈之日,便是日语成为国际语之时。
于是,可以确切引出一条重要的结论:日语将不仅仅属于日本民族,我们不能再继续把它作为私人财产来占据,必须将其作为全人类的共同财富来看待。
不仅是日语,日本文化也是如此。
例如柔道,这项日本特有的运动,长久以来都被看作是日本人的专利,但随着其在欧洲国家的普及,柔道也走进了奥运会。
起初,日本选手尚能保持在奥运会上的优势,但荷兰选手格辛克的出现打破了日本人的垄断。
柔道现已国际化了。
日常生活方面也出现了同样的情况。
寿司,不再只有日本人才能享用了。
在经历了种种演化之后,寿司在美国风行一时,据说仅加利福尼亚就有数千间寿司店在经营,食客自然大都是西方人。
寿司也已经国际化了。
柔道和寿司在不同的文化里发展,已经成了全人类的共同财富。
第一课世界の中の日本语目前全世界范围内并无广泛使用的世界通用语,英语、法语、拉丁语等语言虽然在一定区域内广泛通行,但没有一种语言能够覆盖全世界.确切的说,有一些语言在地球的某些地域内成为了地区通用语。
比如苏联地区的俄语,中国及东南亚地区的汉语—-主要指的是其中的“普通话”,东非地区的斯瓦希里语等。
至于日语,则正站在成为地区通用语这条道路的起跑线上。
在东亚、东南亚、西太平洋一带,日语越来越成为沟通交流的语言纽带。
随之而来的是日语学习者的增加,以及日语的普及。
然而问题是存在的。
使用地区通用语的人和不使用的人之间,是无法顺利交流的.以日语为例,日本人与中国人,日本人与泰国人,日本人与澳大利亚人之间,就无法使用日语交谈。
当然还有一种情况:一个泰国人和一个澳大利亚人相遇,或许他们会使用日语交流。
所谓的“国际语”便是这么回事。
遇到外国人时用什么语言与其沟通,对这个问题的研究才刚刚起步。
日本人在和泰国人对话时常使用英语,而遇到意大利人时说法语比较方便易懂,这种现象使人们开始思考此类问题。
当然对英语人群和法语人群不需要进行研究,这是因为英语和法语已经相当的国际化了。
简单的说,日语被外国人用来互相交谈之日,便是日语成为国际语之时。
于是,可以确切引出一条重要的结论:日语将不仅仅属于日本民族,我们不能再继续把它作为私人财产来占据,必须将其作为全人类的共同财富来看待。
不仅是日语,日本文化也是如此。
例如柔道,这项日本特有的运动,长久以来都被看作是日本人的专利,但随着其在欧洲国家的普及,柔道也走进了奥运会.起初,日本选手尚能保持在奥运会上的优势,但荷兰选手格辛克的出现打破了日本人的垄断。
柔道现已国际化了。
日常生活方面也出现了同样的情况。
寿司,不再只有日本人才能享用了。
在经历了种种演化之后,寿司在美国风行一时,据说仅加利福尼亚就有数千间寿司店在经营,食客自然大都是西方人。
寿司也已经国际化了。
柔道和寿司在不同的文化里发展,已经成了全人类的共同财富。
高级日语1-课文翻译-(1-5课)第一课世界の中の日本语目前全世界范围内并无广泛使用的世界通用语,英语、法语、拉丁语等语言虽然在一定区域内广泛通行,但没有一种语言能够覆盖全世界。
确切的说,有一些语言在地球的某些地域内成为了地区通用语。
比如苏联地区的俄语,中国及东南亚地区的汉语——主要指的是其中的“普通话”,东非地区的斯瓦希里语等。
至于日语,则正站在成为地区通用语这条道路的起跑线上。
在东亚、东南亚、西太平洋一带,日语越来越成为沟通交流的语言纽带。
随之而来的是日语学习者的增加,以及日语的普及。
然而问题是存在的。
使用地区通用语的人和不使用的人之间,是无法顺利交流的。
以日语为例,日本人与中国人,日本人与泰国人,日本人与澳大利亚人之间,就无法使用日语交谈。
当然还有一种情况:一个泰国人和一个澳大利亚人相遇,或许他们会使用日语交流。
所谓的“国际语”便是这么回事。
遇到外国人时用什么语言与其沟通,对这个问题的研究才刚刚起步。
日本人在和泰国人对话时常使用英语,而遇到意大利人时说法语比较方便易懂,这种现象使人们开始思考此类问题。
当然对英语人群和法语人群不需要进行研究,这是因为英语和法语已经相当的国际化了。
简单的说,日语被外国人用来互相交谈之日,便是日语成为国际语之时。
于是,可以确切引出一条重要的结论:日语将不仅仅属于日本民族,我们不能再继续把它作为私人财产来占据,必须将其作为全人类的共同财富来看待。
不仅是日语,日本文化也是如此。
例如柔道,这项日本特有的运动,长久以来都被看作是日本人的专利,但随着其在欧洲国家的普及,柔道也走进了奥运会。
起初,日本选手尚能保持在奥运会上的优势,但荷兰选手格辛克的出现打破了日本人的垄断。
柔道现已国际化了。
日常生活方面也出现了同样的情况。
寿司,不再只有日本人才能享用了。
在经历了种种演化之后,寿司在美国风行一时,据说仅加利福尼亚就有数千间寿司店在经营,食客自然大都是西方人。
寿司也已经国际化了。
第二課一つ屋根の下で年を重ねながら住まうとき、どんな形があるだろう。
子供との同居、独居、老人ホーム…。
こうした従来の住まい方とは違い、一つ屋根の下で他人同士が支えあって暮らす、新しい「終りの棲家(すみか)」が今、少しずつ生まれている。
年老了要选择居住方式的时候,会有哪种形式呢?适合孩子一起住,独居又或者是住养老院呢?一种和以前的居住形式都不同的,和他人相互扶持形成的在同一屋檐下的全新的“最后的住处”这种形式如今逐渐诞生了。
速水澈まだ田畑(たはた・田んぼと畑)が残る、神奈川県伊勢原市(かながわけんいせはら)の郊外。
富士山を望む小高い場所に、三人のお年寄りと医大生二人がともに暮らす、グルーブハウス「欅(けやき)」がある。
在仍然保留着水田和旱田的神奈川县伊势原市的郊外,一片能眺望到富士山的略高的地方,有一所名为“榉树”的集体住宅,在哪里生活着三位老人和两位医大的学生。
約二十畳のリビングは天窓のある吹き抜けで、開放感がある。
一階に和室、二階には板張(いたば)りの部屋が三室ずつあり、キッチンとトイレ付きで三十平方メートルほど。
共同ぶろはひのきの湯船(ゆぶね)でゆったり(1.のんびり2.余裕ある様子)としている。
家賃は六万五千円。
食費などすべてを含めると十二万五千円になる。
大约20块榻榻米大小的起居室上下两层的空间被打通,并且装有天窗,给人一种开放感。
一楼是和式房间,二楼分别有三间铺木质地板的房间,加上厨房和卫生间大约有30平米。
共同洗澡间有个舒适的宽敞的丝柏质浴盆。
房租6万5千日元。
包括伙食费全部一起12万5千元。
おかずは近くに住むオーナーの岩崎弘子(いわさきひろこ)が作るが、炊飯やみそ汁作り、盛り付けなどは住む人全員でする。
食卓はにぎやかで大家族のようだ。
「あそこのお医者さんは良く診てくれるし、男前だ」。
そんな話をしては、笑いあう。
做菜是由住在附近的房东严崎弘子(58岁)负责,做饭,做姜汤,盛饭等等就由居住在这里的全体成员分担。
トンボコツコツとアスファルトに刻む、足音を踏みしめるたびに俺は俺であり続けたいそう願った裏腹な心たちが見えてやりきれない夜を数え逃れられない闇の中って今日も眠ったふりをする死にたい位に憧れた花の都“大東京”薄っぺらのボストンバック北へ北へ向かったざらついた苦い砂を噛むとねじ伏せられた正直さがいまごろになってやけに骨身にしみる●ああ幸せのトンボよどこへお前はどこへ飛んでよく●ああ幸せのトンボがほら舌を出して笑ってらあ明日からまだ冬の風が横っつらを吹き抜けてよくそれでもおめおめと生き抜く俺を恥らう裸足のまんまじゃ寒くて凍りつくような夜を数えだけど俺はこの町を愛しそしてこの町を憎んだ死にたい位に憧れた東京のバカヤローが知らん顔して黙ってまま突っ立ってるケツの座りの悪い都会で憤りの酒をたらせば半端な俺の骨身にしみる●ああ幸せのトンボよどこへお前はどこへ飛んでよく●ああ幸せのトンボがほら舌を出して笑ってらあ●ああ幸せのトンボよどこへお前はどこへ飛んでよく●ああ幸せのトンボがほら舌を出して笑ってらあEdelweiss(英文经典名曲:雪绒花)Edelweiss edelweiss every morning you greet me,Small and white clean and bright you look happy to meet me,Blossom of snow may you bloom and grow, bloom and grow forever,Edelweiss edelweiss bless my homeland foreverサボテンの花財津和夫1974(S.49)年、5人組のバンド“チューリップ”の曲です。
1993年、フジTV系列のドラマ「ひとつ屋根の下」の主題歌に財津さんのボーカルで使われ、再ヒットしました。
ほんの小さな出来事に愛は傷ついて君は部屋をとびだした真冬の空の下に編みかけていた手袋と洗いかけの洗濯物シャボンの泡が揺れていた君の香りが揺れてたたえまなく降りそそぐこの雪のように君を愛せば良かった窓に降りそそぐこの雪のように二人の愛は流れた思い出詰まったこの部屋を僕も出て行こうドアに鍵をおろした時なぜか涙がこぼれた君が育てたサボテンは小さな花をつくった春はもうすぐそこまで恋は今終わったこの長い冬が終わるまでに何かを見つけて生きよう何かを信じて生きてゆこうこの冬が終わるまでこの長い冬が終わるまでに何かを見つけて生きよう何かを信じて生きてゆこうこの冬が終わるまでララーラララーラララララー・・・・昴*(すばる)目を閉じて何も見えず悲しくて目を開ければ荒野に向かう道よりほかに見えるものはなしああ、砕け散るさだめの星たちよせめて密やかにこの身を照らせよ我は行く蒼白き頬のままで我は行くさらば昴よ呼吸をすれば胸の中木枯らしはなき続けるされど我が胸は熱く夢を追い続けるなりああさんざめく名も無き星たちよせめて鮮やかにその身を終われよ我は行く心の命ずるままに我は行くさらば昴よああいつの日か誰かがこの道をああいつの日か誰かがこの道を我は行く蒼白き頬のままで我は行くさらば昴よ我は行くさらば昴よ↗。
第二課命をかけて今から六十年ほど前、明治二十八年八月のことです。
富士山の頂,剣の峰に、不思議な小屋が建てられました。
南北約五・五メートル、高さ約三メートルの木造の平屋です屋根には,カタツムリの角のように、棒が行く本も突き出ていました。
小屋の上の岩の上には、お碗のようなものが、くるくる回っていました。
家の周りは、冬に供えて、石でしっかりと囲まれていま「和田先生、おかげさまで、とうとうできました。
」未だ若い野中到は、少し興奮して、頬を赤らめながら、うれしそうに言いました。
「運、できた。
とうとう日本にも高山気象観測所画できた。
全く野中のおかげだ。
」そう答えたのは、中央気象台の天気予報課長の和田雄治技師でした。
「いいえ、何もかも先生のおかげです」この時まで、日本のどこにも高山気象観測所はありませんでした。
外国では前から、アルプスのモンブランにも、南アメリカのミスチー山にもあって、一年中気象の様子が詳しく調べられていました。
高い所の気象が分かれなければ、漁業や農業・交通等、大切な仕事に役に立つ正しい天気予報はできません。
気象観測の重要性を知った野中到は、三十三歳のとき、「どうかして、日本にも気象観測所を作りたい。
」と考えて、和田技師を尋ね、気象学の勉強から始めました。
そして、七年後の今日、とうとう富士山の頂に、その私設観測所を創設下のです。
和田技師野指導で、必要な器械類の備え付けをして、これからの観測の仕方についても、いろいろ注意をうけました。
「さあ、この一冬を、ここでしっかりがんばるぞ。
」長年の願いがかなった到は、喜び勇んで、妻の千代子と三歳になる長女を東京に置いて、明治二十八年の九月三十日、今度は、ただ一人で、この私設観測所へのぼってきました。
そして、次の日の十月一日から、日本最初野高山気象観測を始めたのです。
世間の人たちは、目を丸くして、おどろきました。
「富士山の天辺で一冬越すなんて、死にに行くようなものだ。