日语版道德经
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帛书版《道德经》(拼音版)dào kědào yěfēi héng dào yěmíng kěmíng yěfēi héng míng yě道可道也,非恒道也。
名可名也,非恒名也。
wúmíng wàn wùzhīshǐyěyǒu míng wàn wùzhīmǔyěgùhéng 无名万物之始也;有名万物之母也。
故恒wúyùyěyǐguān qímiào héng yǒu yùyěyǐguān qísuǒjiào 无欲也,以观其妙;恒有欲也,以观其所徼。
l iǎng zhětóng chūyìmíng tóng wèi xuán zhīyòu xuán zhòng miào zhīmén两者同出,异名同谓。
玄之又玄,众妙之门。
t iān xiàjiēzhīměi wéi měi wùyǐj iēzhīshàn sībúshàn yǐ天下皆知美,为美恶已;皆知善,斯不善已。
yǒu wúzhīxiàng shēng yěnán yìzhīxiàng chéng yěcháng duǎn zhīxiàng 有无之相,生也;难易之相,成也;长短之相,xíng yěgāo xiàzhīxiàng yíng yěyīn shēng zhīxiàng héyěxiān hòu zhī形也,高下之相,盈也,音声之相,和也,先后之xiàng suíhéng yěshìyǐshèng rén jūwúwéi zhīshìxíng bùyán zhī相随、恒也。
師説·(唐)韩愈·古之学者必有师。
师者,所以传道受业解惑也。
人非生而知之者,孰能无惑?惑而不从师,其为惑也,终不解矣。
生乎吾前,其闻道也固先乎吾,吾从而师之;生乎吾後,其闻道也亦先乎吾,吾从而师之。
吾师道也,夫庸知其年之先後生於吾乎!是故无贵无贱无长无少,道之所存,师之所存也。
嗟乎!师道之不传也久矣,欲人之无惑也难矣。
古之圣人,其出人也远矣,犹且从师而问焉;今之众人,其下圣人也亦远矣,而耻学於师。
是故圣益圣,愚益愚。
圣人之所以为圣,愚人之所以为愚,其皆出於此乎?爱其子,择师而教之,於其身也,则耻师焉,惑焉。
彼童子之师,授之书而习其句读者,非吾所谓传其道、解其惑者也。
句读之不知,惑之不解,或师焉,或不焉,小学而大遗,吾未见其明也。
巫医、乐师、百工之人不耻相师,士大夫之族曰“师”曰“弟子”之云者,则群聚而笑之。
问之,则曰:彼与彼年相若也,道相似也,位卑则足羞,官盛则近谀。
呜呼!师道之不复,可知矣。
巫医、乐师、百工之人。
吾子不齿,今其智乃反不能及,其可怪也欤!圣人无常师。
孔子师郯子、苌子、师襄、老聃。
郯子之徒,其贤不及孔子。
孔子曰:“三人行,必有我师。
”是故弟子不必不如师,师不必贤於弟子。
闻道有先後,术业有专攻,如是而已。
李氏子蟠,年十七,好古文、六艺,经传皆通习之,不拘於时,学於余。
余嘉其能行古道,作师说以贻之。
『師説』訓読〔第一段〕古の学ぶ者は、必ず師有り。
師は道を伝へ業を授け惑ひを解く所以なり。
人は生まれながらにして之を知る者に非ず。
孰か能く惑ひ無からん。
惑ひて師に従はざれば、其の惑ひたるや、終に解けざらん。
吾が前に生まれて、其の道を聞くや、固より吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾が後に生まれて、其の道を聞くや、亦吾より先ならば、吾従ひて之を師とせん。
吾は道を師とするなり。
夫れ庸ぞ其の年の吾より先後生なるを知らんや。
是の故に貴と無く賎と無く、長と無く少と無く、道の存すると所は、師の存する所なり。
帛书版《道德经》——真正的原版《道德经》全文01.道可道也,非恒道也。
名可名也,非恒名也。
无名万物之始也,有名万物之母也。
故:恒无欲也,以观其眇;恒有欲也,以观其徼。
两者同出,异名同谓。
玄之又玄,众妙之门。
02.天下皆知美之为美,恶矣,皆知善之为善,斯不善矣。
有无之相生也,难易之相成也,长短之相形也,高低之相盈也,音声之相和也,先后之相随也。
是以圣人居无为之事,行不言之教。
万物作而弗始也,为而弗恃也,成功而弗居也,夫唯弗居,是以弗去。
03.不上贤,使民不争。
不贵难得之货,使民不为盗。
不见可欲,使民不乱。
是以圣人之治也,虚其心,实其腹,弱其志,强其骨,恒使民无知无欲也。
使夫知不敢弗为而已,那么无不治矣。
04.道中,而用之又弗盈也,渊呵,似万物之宗。
挫其锐,解其纷,和其光,同其尘,湛呵,似或存。
吾不知谁之子,象帝之先。
05.天地不仁,以万物为刍狗。
圣人不仁,以百姓为刍狗。
天地之间,其犹橐龠舆?虚而不屈,动而愈出。
多闻数穷,不假设守于中。
06.谷神不死,是谓玄牝。
玄牝之门,是谓天地之根。
绵绵呵假设存,用之不堇。
07.天长地久。
天地之所以能长且久者,以其不自生也,故能长生。
是以圣人后其身而身先,外其身而身存,不以其无私邪,故能成其私。
08.上善假设水。
水善利万物而有静,居众人之所恶,故几于道矣。
居善地,心善渊,予善天,言善信,政善治,事善能,动善时。
夫唯不争,故无尤。
09.持而盈之,不如其已。
揣而锐之,不可长葆之。
金玉盈室,莫之守也,富贵而骄,自遗咎也。
功遂身退,天之道也。
10.营魄抱一,能毋离乎?抟气致柔,能婴儿乎?修除玄览,能无疵乎?爱民治国,能毋以为乎?天门启阖,能为雌乎?明白四达,能毋以知乎?生之,畜之,生而弗有,长而弗宰也,是谓玄德。
11.卅辐同一毂,当其无,有车之用也。
埏埴而为器,当其无,有埴器之用也。
凿户牖,当其无,有室之用也。
故:有之以为利,无之以为用。
12.五色使人之目盲,五音使人之耳聋,五味使人之口爽,驰骋畋猎使人心发狂,难得之货使人之行妨。
帛书版道德经原文及翻译第一章道名有无众妙之门帛书经文:道可道也,非恒道也;名可名也,非恒名也。
无名,万物之始也;有名,万物之母也。
故恒无欲也,以观其妙;恒有欲也,以观其所徼(jiào)。
两者同出,异名同谓;玄之又玄,众妙之门。
【本章64个字】经文今译:道是可以被言说的,但可以被言说的道不是永恒之道;名是可以被表达的,但可以被表达的名不是永恒之名。
无名是创生万物的起始,有名是孕育万物的根源。
无欲时能观察体会到道及万物的隐微之妙即原理,有欲时会探索道及万物的应用及边际。
两者同出于一物,名称虽不同但说的都是同一事物,一体及两面的相互关系非常深奥,是认识万物的神妙之门。
第二章无为不言弗居弗去帛书经文:天下皆知美之为美,恶已。
皆知善,斯不善矣。
有,无之相生也;难、易之相成也;长,短之相形也;高、下之相盈也;音,声之相和也;先、后之相随。
恒也。
是以圣人居无为之事,行不言之教。
万物作而弗始也,为而弗恃也,成功而弗居也。
夫唯弗居,是以弗去。
【本章94个字】经文今译:天下人都知道美之所以为美,那是因为丑恶的存在;天下人都知道善之所以为善,那是因为不善的存在。
有是由无生成的,难是由易变成的,长是由短对照的,高是由下增长的,音是由声应和的,先是由后跟随而显的,这种对立统一的关系是永恒存在的。
所以圣人以无为自然的方式行事,以不言的方式来教化百姓。
万物开始生长时感觉不到他的存在;万物有为时也没有感觉到依赖于他;万物成功时,他也不居功。
正是因为他一直在无为自然而作,并且不言有功,万物反而离不开他。
第三章弗为而已无不治矣帛书经文:不上贤,使民不争。
不贵难得之货,使民不为盗。
不见(xiàn)可欲,使民不乱。
是以圣人之治也,虚其心,实其腹,弱其志,强其骨。
恒使民无知无欲也,使夫智不敢。
弗为而已,则无不治矣。
【本章67个字】经文今译:不推崇权力和财富,则能使民众不争名夺利;不把稀奇难得的财货视为宝贝,则能使民众淳朴而不起盗心;不宣传展现可欲的东西,则能使民众心智不被妄欲迷惑而作乱。
有关于日语中的“一字之差”2009-08-23 09:311.まで和までに① まで表示连续动作的结束时间。
可以译为“到……为止”。
4時まで此所で勉強しています。
在这里学习到4点钟。
② までに表示瞬间动作发生的最后时刻。
可以译为“在……之前”。
4時までに帰ってきます。
在4点钟以前回来。
2.例えば和たとえ① 例えば表示具体事例,可以译为“例如:”。
このデパートではいろんな商品を売っています、例えば電気製品、家具、……。
在这个百货公司有卖各种商品,例如:家用电器、家具、……。
②たとえ与ても配合,表示尽管情况发生变化,事先的状态仍然不变。
可以译为“即使……也”。
たとえ雨が降っても、明日の大会は必ず行います。
即使下雨,明天的大会一定进行。
3.によって和によっては①によって有2个意思,当后面是一种结果时表示根据、依赖于、因为等等;当后面是多种情况时,表示“随……不同,而……也不同”。
この規則は校則によって決めたのです。
这个规定是根据校规制定的。
国によって習慣が違います。
国家不同,习惯也不同。
②によっては多种情况下的某一种,可以译为“有的……情况下”。
国によっては酒を飲んではいけない所も有ります。
有的国家是规定不准喝酒的。
4.つい和ついに①つい有2个意思,一个是表示不是有意识的动作,可以译为“不由得”;另一个是时间上过去很短一段。
可以译为“刚刚、刚……”。
余りにも可笑しいので、つい吹き出してしまいました。
因为太可笑了,所以不由得笑起来了。
田中さんはついさっきまでここにいました。
田中先生刚才还在这里的。
②ついに经过很长时间,最后有了结果。
这个结果可以是好的,也可以是坏的,但是在实际情况是,用于坏结果多一些。
祖父は長い間の病気でついに他界しました。
祖父病了很久,终于去世了。
5.それで和それでは①それで在前面的情况之后,表示必然结果,可以译为“因此、所以、于是”。
雨が降り出しました、それで、運動会は中止になりました。
道dào 德dé经jīng[ 先xiān 秦qín ] 老lǎo 子zǐ第dì0011章zhāng :道dào 可kě道dào , 非fēi 常cháng 道dào 。
名míng 可kě名míng , 非fēi 常cháng 名míng 。
无wú, 名míng 天tiān 地dì之zhī始shǐ。
有yǒu , 名míng 万wàn 物wù之zhī母mǔ。
故gù常cháng 无wú, 欲yù以yǐ观guān 其qí妙miào 。
常cháng 有yǒu , 欲yù以yǐ观guān 其qí徼jiào 。
此cǐ两liǎng 者zhě同tóng 出chū而ér 异yì名míng , 同tóng 谓wèi 之zhī玄xuán 。
玄xuán 之zhī又yòu 玄xuán , 众zhòng 妙miào 之zhī门mén 。
第dì0022章zhāng :天tiān 下xià皆jiē知zhī美měi 之zhī为wéi 美měi , 斯sī恶è已yǐ; 皆jiē知zhī善shàn 之zhī为wéi 善shàn , 斯sī不bú善shàn 已yǐ。
故gù有yǒu 无wú相xiāng 生shēng , 难nán 易yì相xiāng 成chéng , 长cháng 短duǎn 相xiāng 形xíng , 高gāo 下xià相xiāng 倾qīng , 音yīn 声shēng 相xiāng 和hè, 前qián 后hòu 相xiāng 随suí。
P28あるいは「淵(えん)として」の句を四句の後に移すべきか。
「帝」天帝はふつう天地創造の造物者とされている。
『老子』はそれをふまえて、それをのりこえる創始の始源を「道」として考えたのである。
5天地は仁ならず(理想の政治(2))天地の造化(ぞうか)のはたらきには、仁愛(いつくしみ)の徳があるわけではない、藁(わら)で作った犬ころのように万物をとりあつかって、それを生み出しては棄(す)てている。
聖人の政治のやりかたにも、仁愛(いつくしみ)の徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万民をあつかって、用がすめば知らぬ顔でそれを放任している。
天と大地とのあいだのこの世界は、いわば風を送り出す吹子(ふいごう)のようなものであろうか。
からっぽでありながら、そこから万物が生まれ出て尽きはてることがなく、動けば動くほどますます多く出てくる。
それが、天地自然の無心のはたらきだ。
口かずが多いと、しばしばゆきづまる。
黙ってからっぽの心を守っていくにこしたことはない。
それが聖人のおのずからなやりかただ。
天地は仁(じん)ならず、万物(ばんぶつ)を以て芻狗(すうく)と為す。
聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)を以て芻狗と為す。
P29天と地との間(あいだ)は、其(そ)れ猶(な)お橐籥(たくやく)のごときか。
虚(むな)しくして屈(つ)きず、動きて愈々出ず。
多言はしばしば窮(きゅう)す、中(ちゅう)を守るに如(し)かず。
天地不仁、以万物為芻狗。
聖人不仁、以百姓為芻狗。
天地之間、其猶橐籥乎。
虚而不屈、動而愈出。
多言数窮、不如守中。
天地自然のはたらきは、慈愛に満ちた仁の徳を行なっているようにみえる。
しかし、そのはたらきは仁の徳などにしばられたものではない。
それをこえた、非情な、自然無心なはたらきである。
聖人の政治も同じこと、からっぽの無心でいて、慈愛にあふれたおしゃべりなどはしないものだという。
政治家が猫なで声でやさしいことをいうときは、くせものである。
道德经全文原版及译文第一章(序言)原文:道可道,非常道;名可名,非常名。
无名天地之始,有名万物之母。
故常无欲,以观其妙;常有欲,以观其徼(jiào)。
此两者同出而异名,同谓之玄,玄之又玄,众妙之门。
译:能用言语表达出来的“道”,就不叫道了。
为什么这样说呢?你想啊!能够用语言和逻辑去描述清楚的一件事物,它是不是就会被语言和逻辑框起来,变的非常局限了呢?千万不要认为任何事物都有名称、都能用言语表达。
在天地没有诞生之前,万事万物有名称吗?那个时候,花草树木、虫鸟鱼兽都不存在,又何谈名称?它们到什么时候才有的名称呢?是人类发现它们之后,将它们定义成花草树木、虫鸟鱼兽用以分别,才开始有的名称。
但是,它们从有了名称之后,就被名称给框起来了,就再也脱离不了那个标签了。
所以,我们要承认“无”的存在,只有体会到“无”,才能发现更多的之前没有发现的妙处。
(比如杯子设计了“无”才能装水,房子空出来才能住人,作字画时要留白、谈判时“无声胜有声”等等)而“有”呢?并非就无用了,我们可以用已经定义的“有”去扩展,去寻找更大的边界,这样的话,框起来的“有”就被激活了。
在生活之中,“有”和“无”其实会经常一同出现,只是我们往往看的到“有”,却发现不了“无”罢了(比如我们常追求胜、强、进、大、多、高、增、有、得、美,却很少去观注败、弱、退、小、少、低、减、无、舍、丑)。
一个人如果能够发现“无”的存在,那就已经很“玄”了,如果他能发现“无”的存在之后,还专门去研究“无”、利用“无”,那么这个人,真可称得上“玄之又玄”了。
(如果我们能够在追求胜的同时看得到败;在追求强的同时看得到弱;在追求进的同时看得到退;在追求大的同时看得到小;在追求多的同时看得到少;在追求高的同时看得到低;在追求增的同时看得到减;在追求有的同时看得到无;在追求得同时看得到舍;在追求美的同时看得到丑,然后利用好败、弱、退、小、少、低、减、无、舍、丑的力量,那就基本上天下少有人可以匹敌了。
道德经原版《老子》是道家最重要的经典。
老子其人,据《史记》载,姓李名耳字耳冉,春秋末期楚国苦县今河南鹿邑人,是周朝的`史官。
但《史记》同时也记载了不同的传说,说:“世莫知其然否”,没有肯定的结论。
《老子》书分上下两篇,上将道经、下篇德经,合称道德经,共81章,5000余字。
约成书于战国时期。
下面是整理的道德经原文。
第一章道可道,非常道。
名可名,非常名。
无名天地之始﹔有名万物之母。
故常无,欲以观其妙﹔常有,欲以观其徼。
此两者,同出而异名,同谓之玄。
玄之又玄,众妙之门。
第二章天下皆知美之为美,斯恶已。
皆知善之为善,斯不善已。
有无相生,难易相成,长短相形,高下相盈,音声相和,前后相随。
恒也。
是以圣人处无为之事,行不言之教﹔万物作而弗始,生而弗有,为而弗恃,功成而不居。
夫唯弗居,是以不去。
第三章不尚贤,使民不争不贵难得之货,使民不为盗﹔不见可欲,使民心不乱。
是以圣人之治,虚其心,实其腹,弱其志,强其骨。
常使民无知无欲。
使夫智者不敢为也。
为无为,则无不治。
第四章道冲,而用之或不盈。
渊兮,似万物之宗﹔湛兮,似或存。
吾不知谁之子,象帝之先。
第五章天地不仁,以万物为刍狗﹔圣人不仁,以百姓为刍狗。
天地之间,其犹橐龠乎。
虚而不屈,动而愈出。
多言数穷,不如守中。
第六章谷神不死,是谓玄牝。
玄牝之门,是谓天地根。
绵绵若存,用之不勤。
第七章天长地久。
天地所以能长且久者,以其不自生,故能长生。
是以圣人后其身而身先﹔外其身而身存。
非以其无私邪。
故能成其私。
第八章上善若水。
水善利万物而不争,处众人之所恶,故几于道。
居善地,心善渊,与善仁,言善信,政善治,事善能,动善时。
夫唯不争,故无尤。
第九章持而盈之,不如其已﹔揣而锐之,不可长保。
金玉满堂,莫之能守﹔富贵而骄,自遗其咎。
功遂身退,天之道也。
第十章载营魄抱一,能无离乎。
专气致柔,能如婴儿乎。
涤除玄鉴,能无疵乎。
爱国治民,能无为乎。
天门开阖,能为雌乎。
明白四达,能无知乎。
第十一章三十辐,共一毂,当其无,有车之用。
⽇语中万恶的“亚撒西”到底是什么?你绝对不⽌⼀次的在ACG作品中听过这句令⼈⽣厌的台词。
温柔,是⽇语单词“優しい”的直译由于罗马⾳为yasashii故⽽其空⽿“亚萨西”就成了观众们最亲切的叫法纵观⽇漫,有不少“亚萨西”的男主总能让我们眼前⼀亮。
例如看似冷酷⽆情却将所有的温柔和牵挂都献给弟弟的宇智波鼬再如长相凶神恶煞,但在声援⼤河爱情上⾯全⼼全意的⾼须龙⼉甚⾄是那个号称⼈⾁推⼟机的伊藤诚也在“亚萨西”的加持下各种开挂(⽩给)?这些⾓⾊凭借着⾃⼰善解⼈意且饱含爱意的举⽌征服了观众的芳⼼⽽有些观众也难免会闻⽽起意纷纷效⽽彷之其结果便是⼀个个都活成了30多岁的⼤魔法师扁着个doge头⾯⾯相觑。
巨⼤的反差让不少⽹友打上了⼀个⼤⼤的问号并⾃嘲道:“我原以为对‘亚萨西’有了⾜够的理解达到了第⼆层其他⼈只在第⼀层可没想到它竟在第五层”!除去我上我不⾏的抱怨外更多的⼈则是对“亚萨西”模糊的定义感到不满。
归根到底,动画⾥所推崇的“亚萨西”究竟是个什么玩意?动画中描绘的“亚萨西”显然,“亚撒西”可不⽌有温柔这⼀个意思。
倘若我们翻阅⽇本词典就会发现優しい竟然囊括了“温和、亲切、优雅、典雅、宽容、体谅及富有同理⼼”等如此多的含义然⽽当⼀种外舶词汇被翻译成汉语时注定会牺牲它的许多含义⽽想要做到尽可能地还原“亚萨西”的内味似乎也找不到⽐“温柔”更加合理的解释了。
所以,我们不应被语种的相互转化所带来的⽂化差异束缚住了思考⽽更应该站在⽇本⼈的视⾓来看待这个万恶的優しい。
出演《极道鲜师》男主的松本润在接受采访时这样形容優しい:“——優しさといえば?(说道温柔能想到什么?)”——強い!”(强⼤!)”然⽽就是这个令⼈诧异的回答却道出了優しい的本质。
上条当⿇的温柔是不惜牺牲⾃⼰也要给他⼈带来笑容的愿望是⾏动派说到做到的担当也是对守护弱者毫不犹豫的那种强⼤。
炭治郎的温柔是毫不犹豫的⼿刃恶⿁的决断是⾝为长男的担当更是愿于原谅感化仇⼈的那种强⼤西宫硝⼦的温柔是对曾经伤害过⾃⼰的⼈的宽容是想要和所有⼈交朋友的单纯更是在饱受苦难之后仍然选择⾃⼰⼼中美好的那种强⼤诸如此类的⾓⾊虽然⾝处不同作品且贯彻“亚萨西”的⽅式各不相同但他们都做到了《道德经》中“以天下之⾄柔,驰骋天下之⾄坚”的强⼤若抽丝剥茧的来看待这些⼈物我们很容易发现他们都有着在意他⼈远超⾃⼰即便价值观截然不同也能对他⼈抱持善意的共性既悲悯与共情——悲悯意味着对万物的不轻视不蔑视,共情意味着对万物的感同⾝受这与⽇本国学⼤家本居宣长提出的⽂学理念——“物哀”不谋⽽合⽽这也正是“亚萨西”得以被称之为强⼤的理由这样的“亚萨西”招⼈喜欢吗?——当然这样的“亚萨西”否就能被视为最完美的品质?——那可未必了我们知道,把他⼈需求放在⾃我需求之上的精神正是“亚萨西”的精髓所在但这样的做法,却很难做到⾯⾯俱到⼀⽅⾯,在“亚萨西”的释义中,永远都有着⾃我牺牲的含义在⾥⾯号称“正义的伙伴”的卫宫⼠郎在世界和平信念的驱使下⾏动但归根到底还是以个⼈的牺牲为代价⽽被阿宅们尊称为⼤⽼师的⽐企⾕⼋幡看似有着与众不同的“亚萨西”实际上还是靠着⼀个个⾃爆才构筑起了名为“所有⼈都不会受伤”的世界(除了⾃⼰)另⼀⽅⾯,⽆⽌境的同理⼼更像⼀个定时炸弹隐匿在⾟苦构筑的⼈际关系之中。
第一章老子道徳経(かなり長いのでダウンロードしてお読みください。
)第一章語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。
名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。
だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。
この二つは同じものである。
これらがあらわれて以来、名を異にする。
この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。
第二章美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。
善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。
だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、高と低はたがいに矛盾し、声と音はたがいに調和しあい、前と後はたがいに順序をもつ。
だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
万物は間断なく盛大である。
成長していっても、誰れもそれを所有しない。
仕事が成しとげられても、それに頼るものはいない。
達成されても、名声を求めるものはいない。
名声を求めないから、成功はつねにそこにある。
第三章賢者を尊重する者がいなければ、人は競争をしないだろう。
貴重なるものに価値をおくことをやめれば、人は不法の利益をもつことはないだろう。
欲望を刺激するものを見る者がなければ、心は混乱しないだろう。
だから、賢者は人々の心をくつろがせ、腹をしっかり固めさせ、志を弱めてやり、身体と強くさせて人々を導く。
彼は人々を知識も欲望もない状態にする。
これは、知識をもつ賢者はあえて行動しないということを意味する。
彼の無為によって、教養をもたない者がいないわけではない。
第四章「道」は無によってはたらき、満ちあふれたものではない。
それは深いところで、すべてのもとになるものである。
鋭さをにぶらせ、もつれを解きほぐし、光を和げ、地球を一つにしながら、それは残っている。
誰れが創ったかわからないが、神以前にそれがあったのは本当らしい。
第五章天と地に慈善はなく、すべてのものを偏りなく扱う。
賢者にも慈善なく、人々を偏りなく扱う。
宇宙全体はふいごのようにもともと空である。
何もしなければ、何も欠くものはない。
行えば行うほど、出てくるものは多い。
言葉を出せば出すほど使いはたされる。
だから、ものごとを動かす前にそのままとどまっているほうがよい。
第六章空の精神的現実はいつも存在する。
それを受動性の神秘と呼ぶ。
その入口は宇宙の根源である。
止めることなく、それはいつまでも残る。
汲み出しても尽きることはない。
第七章天と地はいつまでも存在している。
それらは存在を存在として考えないからいつまでも続いている。
賢者は背後に身をおきながら、前へすすむ。
彼は自己を忘れて、自分自身を発見する。
人が自己の状態に達するのは無自己によってではないか。
第八章最上の善とは水のようなものである。
水はあらゆるものに利益を与え、争わない。
それは人の嫌う地味な場所でいつも満足している。
このように、水は「道」に近いものである。
我々は住むために、地味な場所を好む。
いろいろな考えのためには、奥深さを好む。
友だちとの交わりには、心やさしさを好む。
言葉には、誠実さを好む。
政治には、良き秩序を好む。
出来事においては、能力を好む。
行動においては、正しい時を好む。
このように、我々は争わないから、まちがうことはない。
第九章なにかを手にもって自慢するなら、それをもたない方がよい。
人がその窮境を主張しても、その状態に長くとどまることはないだろうから。
部屋に貴重品が満ちあふれていても、誰れもそれらをまもりつづけることはできないだろう。
富裕で高い地位にあって自慢すると、不幸を招く。
仕事が完全に成しとげられ、その任務が充分に終われば、自分の地位を去る。
これが「自然」の道である。
第十章魂とはくを一つに統一し、離れないようにできるか。
呼吸を調和集中させ、嬰児のようにすることはできるか。
自分の中の曇った鏡をきれいにし、何もないようにすることはできるか。
人々を愛し、国を統治して、しかも知られずにいることができるか。
無存在の領域に出入りし、行動を自分で起こすことができるか。
明るい照明を知らなくても、あらゆる方面へ及ぼすことはできるか。
それを養い、育てよ。
生み出しても、それを所有するな。
はたらかせても、それに頼るな。
導いても、それを統御するな。
これは神秘の徳と呼ばれる。
第十一章三十本の輻が車輪の中心に集まる。
その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。
粘土をこねて容器ができる。
その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。
ドアや窓は部屋をつくるために作られる。
その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。
これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。
何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。
第十二章おびただしい色は人の目をまどわせ、おびただしい音は人の耳をだめにし、おびただしい味は人の口をそこなう。
狩猟で競い、追跡すれば、人の心を凶暴にする。
めずらしい価値ある品物はその持主の安全をおびやかす。
だから、賢者は腹に集中し、感覚の誘惑には集中しない。
このように、彼はあるもの(内部の力)をとり、他のもの(外部の力)を捨てるのである。
第十三章名誉と不名誉は我々を興奮させる。
つまり、我々は苦しみを自己にもつからである。
名誉と不名誉が興奮させるとはどうゆうことか。
名誉は我々を上の方へ引き上げ、不名誉は下の方へ下げる。
このように、名誉あるときには興奮し、不名誉のときにもまた興奮する。
それが、名誉と不名誉が興奮させる、といわれる所以である。
大きな苦しみを自己にもつとはどういうことか。
大きな苦しみをもつ理由はただ自己を有することによる。
自己を有しなければ、どこに苦しみがあろうか。
自己と世界とを同一にすれば、そのとき、自己の中に世界はある。
自己を愛するように世界を愛するならば、そのとき、自己の中に世界はある。
第十四章しっかりと見ないから、何も見えない。
それは形のないものと呼ばれる。
しっかりと聞かないから、何も聞こえない。
それは音がないものと呼ばれる。
しっかりとつかまないから、何もつかめない。
それは実体のないものと呼ばれる。
これら三つをつきつめることはできず、混ざりあって一つになっている。
上にあっても明るくなく、下にあっても暗くない。
目に見えず、どんな名前でも呼びようがない。
それはまた無にもどって行く。
それは形のない形と呼ばれ、イメージのうかばない形と呼ばれる。
それはつかまえにくいものである。
近づいて行ってもその顔は見えず、ついて行ってもその後ろ姿は見えない。
遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。
これが「道」の本質である。
第十五章いにしえの「道」にすぐれた人は洗練され、深く啓発されていた。
その深さはほとんど測ることができない。
測れないので、私は彼の姿を描こう。
慎重なること、冬の冷たい流れを渡るかのよう、落ちついていること、近隣の人の邪魔をしないかのよう、丁寧なること、訪問するときのよう、やわらかなること、氷がとけはじめるときのよう、重厚なること、まだ削られていない塊のよう、度量のひろさ、渓谷のよう、底の見えない暗さ、まざりものがあるかのようである。
濁りを静め、澄みきるように誰れができようか。
動かないところから生き生き成長させるところまで、誰れができようか。
「道」を保持していく人はそれが極端にあふれることを望まない。
極端なところに行くことを望まないから、彼は古いものにとどまるし、新しいものにもなることができる。
第十六章空虚を熟視して、真に静寂を守る。
万物はどれも盛んであるが、私はそれらの無為をみつめる。
ものは絶え間なく動き、休まない。
しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。
根源にもどっていくと静寂になる。
静寂になるということは存在の運命にもどることである。
存在の運命とは実在である。
実存を知ることを開明と呼ぶ。
それを知らないで誤って行えば、災いにであう。
実存はすべてを包みこみ、すべてを包みこめば、自己はなくなる。
自己がないということはすべてが満たされており、すべてが満たされれば、超越することになる。
超越すれば、「道」に達する。
「道」に達すれば永久に続く。
身体が死んでも、それは終わらない。
第十七章最上の指導者は誰れも知らない。
その次の指導者は人々に親近感があり、ほめたたえられる。
その次の者は人々に畏れられる。
最下等の指導者は人々に軽蔑される。
指導者が充分に誠実を示さないと、人々の信頼は得られない。
気をつけて、言葉の価値を高めよ。
仕事が行われ、事業が成しとげられたとき、それはひとりでにそうなったのだと人々はいうだろう。
第十八章大いなる「道」が衰えたとき、慈善と道義の教えが起こった。
人の思考や分別が尊ばれたとき、大きな偽りが始まった。
家族の者たちが不和となったとき、子としての孝行や愛情が必要となった。
国が混乱し暗黒となってから、忠義な臣下を求めることになった。
第十九章識別することをやめ、知識を放棄せよ。
そうすれば、人々は何倍も利益を得るだろう。
慈善をやめ、道義を捨てよ。
そうすれば、人々はたがいにもっと愛しあうだろう。
利口な教えをやめ、利益を捨てよ。
そうすれば、盗みや詐欺はなくなるだろう。
識別と知識、慈善と道義、利口と利益はただ外面的な工夫にすぎない。
そこで、これら以外の何かを求めなければならない。
純真さをあらわし、生まれつきの本性に固執せよ、自己本位の自己を取りのぞき、強欲を捨て、人による学習を捨てよ、そうすれば思いわずらうことはなくなるだろう。
第二十章敬意を表して「はい」というのと、非礼な「ああ」ということにどれほどの違いがあろう。
善と悪にどれほど違いがあろうか。
他人が恐れるところで、私もまた恐れなければならないだろうか。
これは何とばかげたことか。
人々は生けにえの祝宴を楽しみ、花咲く春の日に高台に登って楽しんでいるかのようだ。
私はただ一人、身じろぎもせず、何と静寂にしていることか。
ちょうどまだ笑ったことのない赤子のように。
戻るべき家ももたず、目的もなく私はさまよう。
人々は多くの野心と欲望をもっている。
私一人だけがこれらすべてを置き去りにしてきてようだ。
私はなんとなまくらだ。
私の心はまったく愚かものの心だ。
人々は光り輝いているのに、私一人が暗く鈍い。
人々は賢く好奇心が強いのに、私一人がはっきりしなくて鈍い。
私は穏やかな海のように何と静かなことか。
私はなにものにも縛られず流されるようだ。
人々はすべて目的をもっている。
私一人が異様で、善くないもののようだ。