日语综合教程第六册第二课 自然との出会い
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第一课日本人の心欲を出せばきりのない安んじて暮らし、和を保つため、己を抑制するやたらに主張・物事をあからさまにしない争いを好まず、自然の運行に任せる楽観的よりも悲観的な民族臆病であり、小心であるそこから満足が得られる日本人の精神の構えとは、己の楽観的な期待を、悲観的な観点から抑制し、何とか一応の満足を得ようとすることである第二课結論自然というものは、頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。
そのためには、竹がためてきたことを聞いてやる時間が必要で、学知よりも、そっちの方に美しさがある、と思う。
全文の要旨竹を切って、紙に漉いたり、人形面にしたりして、二十年たつが、ものも言わぬ竹ながら、何やかや教わるものが多い。
手をかけないでほうっておくと、竹藪はジャングルになって竹が泣いているし、竹を切り殺して造成するので、竹が号泣している気がする。
自然というものは、頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。
竹から教わるものは、学知世界よりも美しい。
たまには竹がためてきたことを聞いてやる時間が必要である。
第三课鹿おどしの特色とその効果①緊張の高まりと緊張からの解放②単純な、緩やかなリズムの無限の繰り返し③水の流れをせき止め、音に刻むことで返って流れ止まらないものの存在を強調する仕掛け日本で噴水が発達しなかった事情はいろいろあるが、その最大の理由は、日本人が水の自然に流れる姿を美しいと感じていたことにあると思われる日本人の水に対する独特の感性――東西文化の違い)*自然に流れる水の姿を美しいとする感性⇒形なきものを恐れない心の現われ*断続する音の間隙に流れるものを間接に心で味わうこと⇒「鹿おどし」は日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛け日本人は形なきものを恐れない心をもっており、それゆえ音と音との間隙に流れるものを間接的に感じさせる「鹿おどし」は日本人の感性を最もよく表す仕掛けだといえる第五课私はいま、都心とは反対に向かう電車に乗って、或る人物に会いに行こうとしているが、その人物が、何故、これほど私をとらえてやまないのか、わからない。
一課間投詞かんとうし濃淡のうたん快晴かいせい宥めるなだめるややこしい飛んだとんだ理詰めりづめ追及ついきゅう暗黙あんもく景勝地けいしょうち背骨せぼねこぢんまり浜はま逆巻くさかまく打ち寄せるうちよせる見捨てるみすてる愛でるめでる同工異曲どうこういきょく荒海あらうみ入り江いりえ太古たいここの上ないこのうえない操るあやつる乗り切るのりきる辿り着くたどりつく取り巻くとりまく然るべきしかるべきバイキングVikingのし歩くのし歩く北欧人ほくおうじん民たみ制覇せいはならぬ住み心地良いすみごこちよい湿潤しつじゅん快適かいてき今更いまさら彼方かなた甘美かんび気質きしつ幾多いくた妥協だきょう探るさぐる言い分いいぶん己を抑制するおのれをよくせいするあからさま否応なくいやおうなく食い違いくいちがい成り立つなりたつ将棋しょうぎしばしば言下げんか意表をつくいひょうをつく落とし穴おとしあな欺くあざむくうんと一芸に秀でるいちげいにひいでる紛れもないまぎれもない構えかまえ見事にみごとに言い当てるいいあてる肥大ひだいともすれば折りに触れておりにふれて住処すみか二課芽吹きめぶき先駆けるさきがける根雪ねゆきうっすら(と)稜線りょうせん有るか無きかあるかなきかときめき心境しんきょう低木ていぼく摂理せつり下刈りしたがり凋落ちょうらく厳かおごそか佇まいたたずまい迫力はくりょく極致きょくち黒々くろぐろ静まり返るしずまりかえる奥深いおくぶかい愛着あいちゃく研ぎ澄ますとぎすます取り戻すとりもどす知れたしれた措くおく散策さんさく鼓動こどう触れ合いふれあい息づくいきづく魂胆こんたん笹ささ在所ざいしょ藪やぶジャングル工房こうぼう宅配便たくはいびん筍たけのこ手近てぢか細工さいく生家せいか閑寂かんじゃく尺八しゃくはち音色ねいろ日がなひがなせせらぐ子守唄こもりうた遊歩道ゆうほどうがっちり石垣いしがき雀すずめ紋様入りもんよういり乳母車うばぐるま根こそぎねこそぎ造成ぞうせいアプローチ殺風景さっぷうけい才覚さいかく化身けしん在り処ありか脂ぎるあぶらぎる邂逅かいこう三課愛嬌あいきょう気だるいけだるいシーソー水受けみずうけ筧かけひ溢すこぼす跳ね上がるはねあがるくぐもる音を立てるおとをたてる解けるほどける時を刻むときをきざむ静寂せいじゃく弥が上にいやがうえに引き立てるひきたてるせき止めるせきとめる待合室まちあいしつ素朴そぼく引き付けるひきつける華やかはなやか寛ぐくつろぐ趣向を凝らすしゅこうをこらす別荘べっそう草花くさばな添えるそえる轟くとどろく息を呑むいきをのむ迸るほとばしるせせらぎ間が抜けるまがぬける捻じ曲げるねじまげる粘土ねんど行雲流水こううんりゅうすい裏付けるうらづける間隙かんげき一昔ひとむかし猫背ねこぜジョーク言い古すいいふるす決まり文句決まり文句長らくながらく語り継ぐかたりつぐ先入見せんにゅうけんヒステリカルセッテル誇張こちょう独り歩きひとりあるき誰しもだれしもポーランドお人好しおひとよし正すただす枠わく嵌めるはめる頑なかたくな芽生えるめばえる誇らしいほこらしい蓋しけだしとらえどころ取り分けとりわけ飛びつくとびつく性癖せいへき安らぐやすらぐ身をもってみをもってヒーロー進路しんろ決断力けつだんりょく大まかおおまか拗れこじれ拘るこだわる繊細せんさい早飲込みはやのみこみ補強ほきょう増幅ぞうふく単なるたんなる枠組みわくぐみ格段かくだん恣意的しいてき慎重しんちょう五課猛暑もんしょ白茶けるしたちゃけるライト書き割りかきわり扉とびら咲き乱れるさきみだれる向日葵ひまわりパラソル明け方あけがた不整脈ふせいみゃく早朝そうちょう叩き起すたたきおこす通い詰めるかよいつめる興じるきょうじる萌葱色もえぎいろポロシャツ不義理ふぎり先頃さきごろミラノ連鎖反応れんさはんのう別棟べつむね司書ししょ華やぐはなやぐ無縁むえん老舗しにせ何やらなにやら焦るあせる駆り立てるかりたてる発送はっそう書店めぐりしょてんめぐり新刊書しんかんしょ文庫本ぶんこぼんささやか復刻版ふっこくばん癪しゃく値段が張るねだんがはるレジカウンターベテランきびきび輪郭りんかく定かさだか封印ふういん新米しんまいブックカバー折り目おりめ顔を赤らめるかおをあからめる栞しおりパンフレットタレント何の変哲もないなんのへんてつもない筆立てふでたてセロハンテープ剥ぐはぐ感叹词(味道,颜色)浓淡晴朗(用好话)抚慰,安抚复杂的,麻烦的与众不同,奇特的;严重的,以外的说理,以理服人追究不声不响景胜地背脊,脊梁骨小巧玲珑海滨,湖滨波浪翻卷,波涛汹涌涌来。
我家现有三只猫。
最近的孩子都很现实,所以他们向父亲询问:“猫究竞有什么用?”我被问住了。
不错,这么说来,狗可以防賊,或把扔出去的球拾回来,多少为人干点事。
但是猫呢?由于现在老鼠也不太看得到丁,所以它就是吃、睡、出去走走,饿丁就回来,然后再吃丁逐,仅仅如此,对人什么贡献也没有。
“什么用也没有这一点不就挺好吗?因为仅仅呆在那里就挺有意思。
”一我只能这样回答,但这恐怕不能成为对孩于的回答吧。
这个暂且不说,就仅仅是看着动物的行动,就令我感到快乐。
每当看到它们沿着松树或刺槐的树干,垂直一气上窜奸几米,为扑捉飞着的虫于高高地跳跃在空中时,好像在这时才会发出感叹,“动物做的是多么淮确而毫无徒劳的动作啊。
“畜生的卑鄙”之类的话在人的言里是有的。
但不能说都是这样。
有些作为母亲的人甚至不愿生育、养育孩于,扔掉孩于或让孩于死掉,在这样的世界上,猫的育儿却充满细心的情爰和无限的耐心。
说是育儿,也并不是老猫让孩于吃点心,给孩子买玩具,而只不过是把自己在草地上扑捉到的四脚蛇叼来给小猫之类而巳。
用奇妙的叫声呼唤孩于,孩于过去后“啪”的一下把猎物放下来,然后自己不经意地看着孩于玩耍四脚蛇。
怡如我们人的母亲照看自己孩于时满足、安心的表情,呆呆地看着。
还有,老猫在小猫吃盘于里的食物时,远远地一宜尊待,等小猫吃完后,再去吃期盼已久的小猫剩下的东西。
责备小猫时,老猫是何等温柔地啃咬小猫的啊,用收起爪的前蹄又是何等有分寸地拍打小猫咧,而绝不会进行责打。
“连不会说话的兽类,父母也竟如此对于女爱怜,何况人乎?”实朝的这句诗,实在是千真万确。
还不仅如此,可怜的是它们还日夜受到人类文明的惊吓。
连听到吸尘器的声音也会吓得发抖,喷气式飞机在头上低空飞过的话,慌忙躲藏到隐蔽处。
那低眉俯首、无容身之地的样于,使它变得更小。
人如果活得不易,它们也活得很不容易。
猫的数星増加以后,、家中到处都可见到散乱的小动物的尸骸,从四脚蛇到蚌蟒、蝗虫、蝗螂、蜂、金龟于、蝴蝶、蛾于、蟋蟀,有时甚至还有矮虫古之类。
如果说喜欢大山是继承了父亲的血统,那么爱好大海一定是从母亲那里传承下来的。
那是战争结束后不久,恰好经过不忍池附近时,妈妈会在池塘边深深蹲下,两眼死死地盯着水面。
假如我喊她,她的脸上似乎显得很难为情,站了起来,笑着说:“想看一会儿海呀!”当时,因为住在东大附近,去买东西时就顺便在不忍池休息一下,不可思议的是,我一直没有忘记那时妈妈说的话。
小学六年级的暑假,我曾去母亲的故乡,鹿儿岛上一个边远的渔村住了一个月。
外公个子高高的,非常强壮,一直在那里行医。
距家大约五十米处便是大海,从那景色秀丽的海滨,看得见樱岛和开闻火山。
母亲说想看大海,我想也许就是那故乡的海滨吧。
如是在今天,去鹿儿岛用不了两个小时,而在那时,那里是一个遥远的地方,需要坐夜间火车和联运船才能到。
在思乡之情的驱使下,似乎妈妈那种举动是理所当然的。
虽说喜欢大海,但尽情与大海亲密相处也只有在那个暑假,后来仅达到了从学校去洗海水浴的程度。
也许是因为与海隔绝的状态,反而激发起我对大海的憧憬吧。
大学毕业的那年,不知为什么,想要寻找与大海有关系的职业,便去打听能不能在日本邮船公司工作。
出来接待我的人事课长非常遗憾地说:“本公司与其他公司一样,对文学出身的大学生,一概不受。
”我将船公司误认为全体职员都在船上工作了。
尽管如此,希望乘船,我对大海的痴情却有增无减。
幸运的是,我即将去法国,根据指示,留学生将乘船前往。
去马赛有三十三天的航程——想到这个,我高兴得几乎要晕过去,可是其他留学生们不知为什么对这样耗费时间的旅行却一脸的不高兴。
我为了一个人尽情玩味航海的喜悦,选择了四等舱的铺位,那是季节工人用的船舱,留学生从不靠近,不但如此,因为在船底,靠近大海,舷窗外蓝色的波涛近在咫尺,汹涌起伏。
海上起风浪时,船员将蒙上铁皮的舷窗关死。
所谓床位,是用铁管制成的两层架子上绑上帆布,室内什么装饰也没有,简直像牢狱一样。
但是,文明的舒适环境,常常隔断了我们与大自然的直接接触。
日语综合教程第六册第二課自然七①出会7'、^林①四季雪国①春林①芽吹吉力、始求召七言細力y見n^7 旷①緑広先駆咲吉、夕厶少八(二才咲<。
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日语综合教程第六册第二課
自然との出会い
ブナ林の四季
雪国の春はブナ林の芽吹きから始まると言ってよい。
もちろん細かく見ればブナの緑に先駆けてマルバマンサクが咲き、タムシバ(ニオイコブシ)が咲く。
しかし人の心にしみじみと春の喜びを感じさせてくれるのは、このブナの芽吹きであろう。
まだ風も冷たく、根雪が林地に残っているうちに、ブナの新緑はうっすらと稜線を染める。
あるかなきかのこの新緑に、長く厳しい冬に耐えてきた雪国の人は心のときめきを抑えることができない。
しかし、まだはっきりと春が訪れたわけではないから、このときめきをあからさまにするのはもう少し待とう、そういった心境だと言えばいいだろうか。
この時こそが雪国に暮らす人々にとって最高に幸せな時なのである。
やがて、誰の目にも明らかに新緑は稜線を染めながら登り、全山を緑で覆っていく。
そのころには林内の根雪もほとんど消えて、つつじ類をはじめ、低木類が林床を飾るのである。
しかし、いつもながらの春の訪れとは言いながら、どうしてこうも順序を間違えず、次から次へと植物たちは動き出すのであろうか。
その移り変りは、恰も生き物たちの成長していくように、森林全体もまた時節とともに変化を遂げていく。
天の摂理とは、まさにこのようなことを言うのではなかろうか。
夏から秋にかけては実りと収穫の時節である。
最も収穫というのは人間をはじめ動物側のことだから、植物にとって最も生命感にあぶれる時期こそが夏のだといったもうがいいかもしれない。
林業にとってはやっかいな真夏の下刈りという作業も、雑草や小低木かれ見れば、とんでもない迷惑なことである。
ここには人それぞれの自然がある。
自然保護と林業振興との、いずれの立場が優れているというのでもない。
ひとはそれぞれの立場で自然に接するのだということを、我々は心の底で認め合いながら生きでいるのである。
いかなる存在にも凋落の時が来ることを、自然はその長い年月の移ろいの中でも、また一年という短い間にも示してくる。
やがてブナの葉は落ち着くし、樹木全体が冬に備えた厳しい表情に変っていく。
その厳かなたたずまいといい、また風雪に耐えるけなげな姿といい、ブナ林が真の迫力を見せるのに、冬に勝る季節はないであろう。
或る人はその姿をおそろしいというまもしれない。
またある人はそれこそ美の極致と評価するかもしれない。
評価はどうあれ、黒々と静まり返った冬のブナ林の中では、もう既に何かが動き始めている。
巡り来る春に、再び山をおおいつくす葉が、早くも必要な枚数だ冬芽の中に準備されているのである。
ここでもまた、わたしたちは自然の偉大さに驚かずにはいられない。
自然の中に身を置いてみて、人間は初めて自然の大きさにふれることができるのである。
同時に、大自然の一員ちして、その中に包み込まれた自分をも認識できるであろう。
ブナ林という自然界の片隅のしかもその移り変りの一断面をのぞいてみただけでも、自然は、いかに多彩で奥行きが深いものであるかを知ることができる。
その奥深さが実感できるのは、そこに人間がかかわっているからにほかならない。
確かに日本人は自然に極めて強い愛着を抱いている。
また自然に対して研ぎ澄まされた感性を持っているの事実である。
それは日本文化のさまざまな領域にも反映されていよう。
しかし、それはあくまでも抽象的な、観念的な自然でしかないのではなかろうか。
自然を人間から切り離して眺めるのではなく、むしろ自然を友とし、自然のこころに迫ることが大切なのである。
これまで日本では、植物の名前一つにしても、もしろヨーロッパの文学作品から多くを学んだような気がすてならない。
実際にみたこともない植物なのに、スグリとカアラセイトウという名前はよく目にしたものである。
しかもそれらの植物は、物語の背景としてかなり大切な役割を果たしていた。
それに比べれば、詩や歌はともかくとして、日本の物語に登場する森の植物は、その種類も数もしれたものである。
ブナなども、今でこそ、名前を知らない人たちは少ないが、ほとんど日本の物語の中に現れていない。
こういう、ちょっとした例からみても、日本人がどちらかといえば、感情という側面ばかりで自然と付き合
ってきたことを、改めて思わずにはいられないにである。
これから必要なのは、実際に大自然の中に身を置き、そこに新たな楽しみを見出していくことであろう。
何はおいても、まず山を散策し、自然界の生の鼓動に耳を傾けよう。
こうした自然との触れ合いの中で、自分自身の心も再び息づいてくるに違いない。
与自然的邂逅(日译中)
雪国的春天应该说是从山毛榉树林初绽新芽开始的。
当然,如仔细看的话,在山毛榉泛绿之前,圆叶金缕花已经开放,柳叶木兰也已经开放。
不过使人内心深刻地感受到春天的喜悦之情的,还是这山毛榉的新芽吧。
当北风尚寒,林地中残雪犹存之际,山毛榉的新绿已悄悄披上了山脊。
正是这似有似无的新绿,使长期忍受着严冬的雪国人的心中,有一种按捺不住的喜悦。
但是,由于还没有清楚的春天来到的迹象,想要直率地表达这种喜悦,恐怕还尚待时日,应该说是这样一种心情为好吧。
正是在这个时候,对生活在雪国的人们来说,才是最幸福的时刻。
用不了多久,谁都可以清楚地看到,新绿一边将山脊浸染,一边向上攀升,终于让满山都披上了绿装。
这个时候林子里的残雪也几乎化尽,由映山红打头阵,低矮的灌木将林子的植被装点起来。
虽说是永恒不变的春天到来,为什么植物们会按照永远不变的顺序,一批又一批地轮番出动呢?这样的变化,恰如生物本身的生长状态,从幼年到少年,再到青年,渐渐成长起来那样,森林中的全体成员也与季节一起完成了这种变化。
所谓天意如此,说的不正是这样的事情吗?
夏去秋来,是收获果实的时候。
不过所谓收获是以人类为首的动物方面的事情,对于植物来说,最为生机勃勃的时期也许是夏天了。
对林业来说,麻烦的是盛夏的除草工作,如果从杂草和低矮灌木方面的立场来看,是出乎意料的麻烦事。
在这里有人们各自认可的自然。
自然保护和振兴林业,从各自的立场来说并不都是
好的。
在我们的内心深处,对于人们站在各自的立场上接触自然这件事,我们一边对此加以认可,一边生存着。
任何事物都有凋零的时候,自然在这漫长岁月的迁移中,还以一年的短暂期间向我们展示。
没过多久,山毛榉的叶子有了归宿,林子里的全体成员都在为准备过冬的严重情况转变。
说是庄重的样子也好,说是经受风雪的坚强姿态也好,显示山毛榉扣人心弦的力量,则再也没有比冬季更好的季节了。
也许有人会说这种样子很可怕,也许有人会评论说唯有这才是美的极致。
不管如何评价,在漆黑的重新变得寂静的冬天的山毛榉林中,已经有某种东西在开始萌动。
而在循环而至的春天,再次覆盖山峦的山毛榉的叶子,早就按照需要的叶片数在冬芽中作好准备了。
在此我们还是要情不自禁地感叹自然的伟大。
将自己置身于自然之中来观察,人类才能开始感触到自然之博大,同时作为大自然的一员,方才能够认识到包含在其中的自己吧?
只要略微看一下山毛榉林这个自然界的角落,看一下它变迁中的一个横断面,我们就可以知道自然是多么丰富多彩,博大精深。
对其深奥的内涵能够切身感受,无非是因为它与人类切切相关。
确实,日本人对自然抱着极强的爱恋,还对自然持有变得尖锐起来的感性认识,正如日本文化的各个领域所反映的那样。
但是,说到底那也不过是抽象的,观念的自然而已,我们必须找回更加现实的与自然的一体感,不是将自然与人类世界分割开来观察,而是将自然作为朋友,接近自然的精神,这才是最重要的。
日本直到现在,即使是一个植物名称,也给人以一种大多是从欧洲的文学作品中学来的感觉。
虽然是实际上未见过的植物,但是醋栗,洋紫罗兰等名称却经常见到。
而且这些植物作为故事背景,果然起着相当重要的作用。
与此相比,暂且不论诗与歌,在日本故事中出现的森林植物,其种类和数量都十分有限。
山毛榉也是如此,如今不知道它的名称的人很少,但它却几乎从未在日本的故事中出现过。
从这些微不足道的例子看来,人们不得不作这样的考虑,即日本人无论从哪一方面来说,只有情感这个侧面能与自然交往。
今后要做的,就是将自己置身于实际的大自然中,从那里也许能发现新的乐趣吧。
将任何事情都放下,先去山中走一走,在森林中散散步,听一听自然界的生命的搏动。
在这样与自然的互相接触中,一定能让自己的身心再次得到喘息。