日本歌舞伎和中国京剧
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浅析日本歌舞伎“隈取”与京剧“脸谱”作者:李斐吕俊梅来源:《文艺生活·文艺理论》2012年第07期摘要:日本歌舞伎的“隈取”与中国京剧的“脸谱”都是戏剧舞台上具有自己民族特性的戏剧表现艺术,二者既有相似又有不同,比较的意义在于了解对方特点的同时可以更进一步的认清自己。
关键词:歌舞伎;隈取;京剧;脸谱中图分类号:J821 文献标识码:A文章编号:1005-5312(2012)20-0033-02在东方戏剧艺术中,日本的歌舞伎和中国的京剧分别作为最能代表本国民众艺术水准的戏剧,在东方戏剧舞台上散发着各自的魅力,而二者有一相似之处:为了表现出角色的性格特点和道德品质,把角色人物做为载体,通过显而易见的视觉符号向观众传播传统文化的价值观和道德观。
这种视觉符号就是歌舞伎的“隈取”与京剧脸谱。
下面将从三个方面介绍两者的异同。
一、形成(一)“隈取”歌舞伎是日本四大古典艺能之一,四大古典“艺能”就是指“傀儡戏(伎乐)”、“能”、“人形净琉璃”、“歌舞伎”。
歌舞伎形成的最晚,所以其包容性也是最强的,吸收了其他三种艺能的优点,从而形成了自己的独特性质。
这是歌舞伎具有大众性的缘由,也是最能反映日本民族独特的性质和审美观。
“隈取”是指歌舞伎中用于特殊类型的人物的面部化妆的化妆术语。
具体画法很大的一个特点就是渲染:用水白粉底加红、蓝、褐等颜色渲染,或者用油性染料加以渲染。
“隈取”很容易让人联想到面具。
而且事实上,歌舞伎以前的艺能也都可以称之为面具戏剧,“傀儡戏”、“舞乐”、“能”都使用面具。
歌舞伎,其自身革命很重要的一部分就是摆脱了面具的制约。
“隈取”基本上都是演员自行勾勒,这就像中国京剧演员自己画脸谱一样。
日本著名戏剧理论家郡司正胜先生,曾经说过日本歌舞伎“隈取”化妆的方法,是从中国戏曲“脸谱”的化妆手法启示而来的,我们姑且不去探讨这种说法的真实性。
发明日本“隈取”化装术的人,被认为是创造武戏的第一代市川团十郎(1660-1704年)。
京剧和歌舞伎的历史比较作者:张玉婧来源:《教育界》2012年第31期【摘要】京剧和歌舞伎作为中日两国的国粹经常会被比较,本文以京剧和歌舞伎的历史为切入点,从比较的依据入手,比较两者出现的时间,以确定其历史长短。
比较的前提和依据不同京剧和歌舞伎的历史会有很大差别。
【关键词】京剧歌舞伎整体要素中日两国是一衣带水的邻国,京剧和歌舞伎都是两国文化中璀璨的瑰宝,是东方传统艺术中的奇葩。
笔者在查阅资料时发现歌舞伎的历史竟然比京剧早200多年,京剧应该是有着悠久的历史,为什么它的出现会晚于歌舞伎呢?为解开这个疑问,本文将对京剧和歌舞伎的具体形成过程加以比较,以明确两者出现的先后顺序。
一、京剧的起源京剧的形成是一个融合了再融合、变化了再变化的复杂过程。
她的萌芽从清代康熙末年“花部”滋生繁盛就开始了,而徽班则是她的直接摇篮。
清乾隆五十五年(1790年),徽州的商人组织戏班进京参加清乾隆皇帝八十寿辰的庆祝演出。
之后,又有一些徽戏的班社相继进京,以“四喜”“春台”“和春”最为著名,加上“三庆班”,合称为当时轰动京城的“四大徽班”。
经过五六十年的衍变,在1828年左右,汉剧进入北京和徽班合并,并且将北京话作为舞台语言,这样,一个独特的戏曲种类——京剧诞生了。
二、歌舞伎的起源要弄清歌舞伎的起源就必须先弄清楚“かぶき者”这个概念。
“かぶき”是从“傾(かぶ)く”这个词衍变而来的,用来形容异于常人的奇怪的行为。
在战国时代末期到江户时代初期的由战乱转向和平的时代,从室町时代到战国时代一直流行的“下克上”的风潮也逐渐退去。
武士们生活在和平的时代,感觉失去了生活的意义,开始怀念“下克上”的乱世,于是他们开始穿奇装异服,过起了放荡的生活。
人们把这些人叫做“かぶき者”。
1603年(庆长八年),出云大社的巫女阿国在北野天满宫的庆典上和着当时的流行乐曲,表演了当时很流行的叫做“ややこ踊り”的奇特舞蹈。
阿国当时身着男装,还在表演中加入了“かぶき者”的元素,创造了当时最先进的表演方式。
浅析日本歌舞伎“隈取”与京剧“脸谱”摘要:日本歌舞伎的“隈取”与中国京剧的“脸谱”都是戏剧舞台上具有自己民族特性的戏剧表现艺术,二者既有相似又有不同,比较的意义在于了解对方特点的同时可以更进一步的认清自己。
关键词:歌舞伎;隈取;京剧;脸谱中图分类号:j821 文献标识码:a文章编号:1005-5312(2012)20-0033-02在东方戏剧艺术中,日本的歌舞伎和中国的京剧分别作为最能代表本国民众艺术水准的戏剧,在东方戏剧舞台上散发着各自的魅力,而二者有一相似之处:为了表现出角色的性格特点和道德品质,把角色人物做为载体,通过显而易见的视觉符号向观众传播传统文化的价值观和道德观。
这种视觉符号就是歌舞伎的“隈取”与京剧脸谱。
下面将从三个方面介绍两者的异同。
一、形成(一)“隈取”歌舞伎是日本四大古典艺能之一,四大古典“艺能”就是指“傀儡戏(伎乐)”、“能”、“人形净琉璃”、“歌舞伎”。
歌舞伎形成的最晚,所以其包容性也是最强的,吸收了其他三种艺能的优点,从而形成了自己的独特性质。
这是歌舞伎具有大众性的缘由,也是最能反映日本民族独特的性质和审美观。
“隈取”是指歌舞伎中用于特殊类型的人物的面部化妆的化妆术语。
具体画法很大的一个特点就是渲染:用水白粉底加红、蓝、褐等颜色渲染,或者用油性染料加以渲染。
“隈取”很容易让人联想到面具。
而且事实上,歌舞伎以前的艺能也都可以称之为面具戏剧,“傀儡戏”、“舞乐”、“能”都使用面具。
歌舞伎,其自身革命很重要的一部分就是摆脱了面具的制约。
“隈取”基本上都是演员自行勾勒,这就像中国京剧演员自己画脸谱一样。
日本著名戏剧理论家郡司正胜先生,曾经说过日本歌舞伎“隈取”化妆的方法,是从中国戏曲“脸谱”的化妆手法启示而来的,我们姑且不去探讨这种说法的真实性。
发明日本“隈取”化装术的人,被认为是创造武戏的第一代市川团十郎(1660-1704年)。
他最初“隈取”的画法,是在扮演金太郎时,把整个面部涂成鲜红色,然后再用黑墨描画出两道浓眉。
从京剧与歌舞伎中看中日文化差异曾读过晚清诗人黄遵宪在《日本杂事诗》中一首小诗:“玉箫声里锦屏舒,铁板停敲上舞初,多少痴情儿女泪,一齐弹与看芝居。
”当时不理解“芝居”的意思,后来经过查阅得知,“芝居”是一个日语词,意为戏剧,自此,对比较中日戏剧的异同兴趣浓厚。
中国的戏剧以京剧为国粹,而日本的戏剧又以歌舞伎为国粹,所以,经过一学期的中日文化比较课程的学习,特此以京剧和歌舞伎的异同来比较中日文化差异。
黄遵宪把歌舞伎看作“异境里遇故知”没错,歌舞伎和京剧确实有着很多的共同点。
日本的歌舞伎与中国的京剧都属于举世闻名的传统艺术和古装喜剧,两者均是以歌舞为主体的综合性的艺术类型。
京剧虽然是形成于北京,但它是多种戏剧相互影响、相互融合演变出来的产物。
京剧是在“徽剧”“汉戏”的基础上,吸收了昆曲“弋腔”“秦腔”和一些地方小调的精华,又结合了老北京的语言特点,经过融合,才发展成现在的京剧。
而歌舞伎的发展,是在江户时代初期,一位叫做阿国的年轻巫女,在京都表演歌舞伎舞蹈。
当时身着男装翩翩起舞的她深受广大群众的喜爱。
之后慢慢各地都出现了追随和效仿者,因而歌舞伎便流行了起来。
歌舞伎后来经过几次日本幕府的禁止与修改,最终演变成由成年男性演出的形式。
歌舞伎也由最开始的注重美貌来吸引观众,转变成追求演技,并且只由男演员进行的纯粹演艺。
因此,京剧和歌舞伎都不是简单而纯粹的艺术形式,而是融合了多个剧种,兼容和包含了多个艺术形式而发展形成的,这儿体现了以他们为代表的中日文化各有的文化包容,都博采众长,大胆吸收、存留、扬弃并且自成一体。
但是,中日艺术上的差异有在这两者身上体现的淋漓尽致,作为不同民族文化的一部分,它们又有着极大的不同之处。
比如,在表演方面,两者演员面部均绘有脸谱,脸谱的着色均有道德意义上的象征性,但歌舞伎脸谱比京剧更有写实性。
演员表演上,两者均有自成一格的程序化规定,但京剧的程式化区域审美化,美观在于程式自身的表现性,歌舞伎的程式仍有较强的写实性,处于程式性与写实性之间,被称为“程式的自然主义”。
世界各地的传统艺术形式传统艺术是一个国家或地区文化遗产的重要组成部分,代表着人们对美的追求和创造力的展现。
世界各地的传统艺术形式多种多样,每一种都有其独特的风格和文化内涵。
下面将介绍世界各地的几个著名传统艺术形式。
一、中国的京剧京剧作为中国传统艺术的代表,源自明代,是一种综合了唱、念、做、打的艺术形式。
京剧以其严谨的唱腔、精妙的表演和深厚的文化内涵而享誉世界。
它通过精心制定的动作、面部表情和身体语言来传递情感和故事情节。
京剧在中国普及广泛,也在世界范围内有一定的影响力。
二、日本的歌舞伎歌舞伎是日本传统戏剧形式,其起源可以追溯到17世纪。
歌舞伎是一种综合了舞蹈、音乐和戏剧的表演形式,通常以历史故事、神话传说和武士道德为题材。
歌舞伎以其华丽的服饰、夸张的化妆和动作表演而著名,演员们通过高度训练和技能展示出精湛的表演艺术。
三、印度的卡塔克舞卡塔克舞是印度北部奥里萨邦的传统舞蹈形式。
它是一种以手势、面部表情和舞步为特色的舞蹈形式,通常讲述神话、宗教故事和历史事件。
卡塔克舞通过优雅的手势、准确的动作和细腻的表情来传递情感和故事情节,其独特的韵律和美感使其成为印度文化遗产的重要组成部分。
四、巴西的桑巴舞桑巴舞是巴西传统舞蹈形式,起源于非洲的奴隶文化。
它是一种充满活力、节奏感强烈的舞蹈,通常伴随着桑巴音乐的节拍。
桑巴舞以其快速的脚步和复杂的身体动作而闻名,是巴西狂欢节等重要节日的重要表演形式。
桑巴舞展现了巴西人民的热情和活力,也体现了巴西文化的多样性和包容性。
五、西班牙的弗拉明戈弗拉明戈是西班牙传统艺术形式,起源于安达卢西亚地区。
它是一种由吉他伴奏的舞蹈和音乐表演,通常表达出激情、孤独和忧郁的情感。
弗拉明戈舞蹈以其优雅的手势、热情洋溢的舞步和复杂的节奏而闻名,演员们通过身体的动作和肢体语言来表达情感和故事情节。
弗拉明戈不仅在西班牙受到推崇,也在世界范围内有一定的影响力。
这些传统艺术形式是世界文化遗产的重要组成部分,它们不仅代表了各个国家和地区的独特文化特色,也是人类创造力和艺术才华的体现。
中国访日京剧代表团介绍
第3版()
专栏:
中国访日京剧代表团介绍
1955年10月日本歌舞伎剧团在中国访问演出期间,日本朝日新闻社代表白石凡、日本大歌舞伎一座代表松尾国三、日本中国友好协会会长松本治一郎代表楢崎富男、日本中国友好协会常务理事能智修弥与中国人民对外文化协会代表阳翰笙,根据1955年8月签订的“日本中国友好协会、日本大歌舞伎一座代表、中国人民对外文化协会关于邀请中华人民共和国京剧团赴日本访问演出的议定书”的精神,对于中国京剧团赴日本访问演出事作了进一步的商谈,并达成了新的协议。
根据这一协议的规定,中国人民对外文化协会应日本朝日新闻社的邀请,在最近组织了中国访日京剧代表团。
中国访日京剧代表团由八十六人组成。
团长:梅兰芳(中国京剧院院长、中国戏曲研究院院长、中国戏剧家协会副主席、全国人民代表大会代表);第一副团长兼总导演:欧阳予倩(中央戏剧学院院长、中国戏剧家协会副主席、全国人民代表大会代表);副团长:马少波兼秘书长(中国京剧院副院长、中国戏曲研究院副院长、中国戏剧家协会常务理事),刘佳(中国戏剧家协会理事),孙平化(中国人民对外文化协会联络部副主任)。
副秘书长:欧阳山尊(北京人民艺术剧院副院长、中国戏剧家协会常务理事)。
舞台监督:袁广和(中国京剧院演出处处长)。
代表团的著名演员有:李少春、袁世海、李和曾、姜妙香等。
(附图片)
中国访日京剧代表团团长梅兰芳在赴日前接到不少日本朋友给他的欢迎信。
本报记者苍石、王志渊摄
中国访日京剧代表团第一副团长兼总导演欧阳予倩在赴日前指导京剧“人面桃花”中演员的
一个动作。
本报记者苍石、王志渊摄。
亚洲各国舞蹈介绍中国 - 传统舞蹈中国是一个拥有丰富舞蹈文化传统的国家。
传统舞蹈在中国历史悠久,并且有很多种类。
- 京剧舞蹈:京剧舞蹈是中国传统戏曲艺术的一部分,结合了动作、表情和音乐。
它通常以精致的动作、协调的舞步和华丽的戏服而闻名。
京剧舞蹈:京剧舞蹈是中国传统戏曲艺术的一部分,结合了动作、表情和音乐。
它通常以精致的动作、协调的舞步和华丽的戏服而闻名。
- 民间舞蹈:中国各地有许多具有代表性的民间舞蹈。
例如,龙舞是一种象征着幸运和繁荣的舞蹈,扇子舞则是一种优雅的舞蹈形式,让舞者用扇子配合舞步表达情感。
民间舞蹈:中国各地有许多具有代表性的民间舞蹈。
例如,龙舞是一种象征着幸运和繁荣的舞蹈,扇子舞则是一种优雅的舞蹈形式,让舞者用扇子配合舞步表达情感。
印度 - 华丽的印度舞印度的舞蹈文化自古以来就存在,并且在不同地区有不同的舞蹈形式。
- 印度古典舞蹈:印度有六种主要的古典舞蹈形式,如著名的卡塔克舞,它强调了手势和独特的脚步技巧。
古典舞蹈通常伴随着宗教或神话故事的表演。
印度古典舞蹈:印度有六种主要的古典舞蹈形式,如著名的卡塔克舞,它强调了手势和独特的脚步技巧。
古典舞蹈通常伴随着宗教或神话故事的表演。
- 印度民间舞蹈:印度各个地区都有自己独特的民间舞蹈形式,如伦巴舞和巴恩斯舞等。
这些舞蹈通常是欢庆特定的节日或庆典活动。
印度民间舞蹈:印度各个地区都有自己独特的民间舞蹈形式,如伦巴舞和巴恩斯舞等。
这些舞蹈通常是欢庆特定的节日或庆典活动。
韩国 - 优雅的韩国舞蹈韩国舞蹈以其优雅和独特的舞蹈风格而闻名,通常传承于宫廷文化。
- 韩国宫廷舞:韩国宫廷舞是一种高雅的舞蹈形式,起源于朝鲜时代。
宫廷舞强调舞者的姿势、手势和手臂的流畅,通常通过传统的音乐和鼓点来伴奏。
韩国宫廷舞:韩国宫廷舞是一种高雅的舞蹈形式,起源于朝鲜时代。
宫廷舞强调舞者的姿势、手势和手臂的流畅,通常通过传统的音乐和鼓点来伴奏。
- 韩国民间舞蹈:韩国有多种民间舞蹈形式,如扇子舞和鼓舞。
日本歌舞伎与中国京剧摘要:日本的歌舞伎和中国的京剧是人类文化的宝库,可以说集合了各种艺术的精华。
歌舞伎和京剧可以集中的体现民族的文化素养,具有数百年的历史。
正因为歌舞伎和京剧随着社会的经济、政治、军事、文化、道德等各个要素的变化而兴衰,所以可以说真实的记载了历史。
本文通过对歌舞伎和京剧的研究,不仅可以使我们青年学生对中日两国的传统文化有更深的了解,对两国历史文化的研究也有帮助。
关键词:歌舞伎,京剧,程式性,女形,艺术,渊源要旨:日本の歌舞伎と中国の京劇は人類文化の宝庫で、各種類の芸術の精華の集まったところと言える。
歌舞伎と京劇は集中的に民族の文化素養を体現できる.数百年ほどの長い歴史を持っている。
歌舞伎と京劇は社会の経済、政治、軍事、文化、道徳など諸要素の変化につれて盛衰していたからこそ、歴史のもっとも真実で生き生きとしている記載ともいえる。
したがって、この論文は歌舞伎と京劇の研究を通して、我々青年学生は中日両国の伝統的な文化をもっと深く了解できるうえに、両国の歴史文化を研究することに役立てる。
キーワード:歌舞伎;京劇;程式性;女形;芸術;淵源1.はじめに日本の歌舞伎と中国の京劇は伝統的な東方文化から生まれ、そして、発達してきた。
また、中日中日両国の友好往来の歴史は「源遠流れは長し」であって、両国戯曲も千年以上の相互交流と影響の歴史を持っている。
したがって、京劇と歌舞伎の間には似ているところもあるし、違うところも存在している。
本文は歌舞伎と京劇を概論的に説明して、ふたつの劇種の歴史淵源と表現形式を分析することを通して、皆さんに中日伝統的な文化の粋をもっとはっきりに了解させられるように書かれた。
2.歌舞伎と京劇について2.1歌舞伎について歌舞伎は日本人のとっておごりとしての伝統的な芝居である。
日本の一番っ代表的な芸術の粋である。
江戸時代の初期から生み出された。
今まで400年の歴史を持っている。
歌舞伎はいつも目新しくて、ユーニク与表現方法と達者与演技で観客を引きつける。
人々に高い人気がある。
数百年来芸術上の練磨とつづけて、丰富、完善にしたことを通して、今日、歌舞伎はもう日本の国粋になった。
東京銀座にある歌舞伎座、京都四条通にある南座などは、いつも観客でにぎわっている。
数百年からの歴史を持つ日本の代表的伝統芸能は、今なおお脈脈とその生命力を保っている。
歌舞伎は役者中心の演劇であり、役者の持っている魅力に支えられている。
特に女形の持つ独特の雰囲気は多くの外国人も引き付ける。
女歌舞伎が禁止され、やむをえず男が演じたわけだが。
長い歴史の中で独自の世界を作り上げるに至った。
今日、若手女形として人気のある坂東玉三郎は海外公演でも大成功を収めた。
歌舞伎役者はほとんど世襲で、幼児から厳しい稽古を積み、伝統を守っている。
舞台の役者は屋号で声援される。
主な屋号には、市川団十郎=成田屋、松本幸四郎=高魔屋、中村歌右衛門=哉駒屋、尾上菊五郎=音羽屋などがある。
舞台下手(客席から向かって左)に観客席を貫いて作られた花道(役者の通り道)を入退場ながら役者と観客はいっそうの一体感を味わう。
脚本の種類は大きく分けて貴族や武士の世界を描いた時代物と、庶民の生活を描いた世話物とがある。
2.2京劇について京劇はいつから始まったか。
京劇史についてはいまだに混沌とした部分が多い。
京劇の起源をいつに置くかについてさえ定説がない状態である。
現在の主な説を紹介すると、乾隆五十五年(1790年)、高宗乾隆帝の八十歳の誕生祝いのため徽班が北京に呼ばれたこの年をもって京劇の起源と言われている。
道光八年から十二年(1828ー32年)にかけて、楚調(漢劇)の俳優王洪貴、李六らが北京に進出し、徽班に影響を与えたときをもって京劇の起源とする説である。
従来の説では、北京にはこの時はじめて湖北から「西皮」が伝わり、これが徽班の「二黄」と融合して「皮黄」すなわち京劇になったと言われていた。
道光二十年(1840年)頃から咸豊末年(1861年)にかけて、俳優の出身地や使用方言などで、徽班の「北京化」が進んだ時期をもって京劇の起源とする説である。
光緒の中葉から末葉(二十世紀初頭)とする説である。
結局、京劇の発生が何年からかを決定するのは、難しさがある。
各説にはそれぞれ根拠とするところがあり、一概に退ける訳にはいかない。
確かなことは、京劇の主な源流は徽戯であり、それに漢劇(の前身)の要素が合流し、さらに崑曲はじめ幾多の地方劇の要素が逐次そそぎ込み、曲折を経て今日見られる京劇の形が出来上がった、という事である。
中国人だからといって、京劇が好きだとは限らない。
これは、世代とは関係の無い好き嫌いの問題である。
そもそも、京劇の歌詞や文句は、演目によって決まるが、一般的に難しく、普通の北京の人には聞き取れない。
むしろ、河北[木邦]子や河南[木邦]子(豫劇)の方が耳で聞いてわかるから好きだ、という北京っ子も少なくないほどである。
3.歌舞伎と京劇の比較3.1歌舞伎と京劇の類似点京劇と歌舞伎は中国と日本の各国の国粋である。
京劇と歌舞伎の数百年の歴史の間、何回かの協力交流したことがある。
淵源がとても深いといわれる。
この中でとくに京劇大師と言われた梅蘭芳父子は京劇芸術を日本へ伝えて、日本に歌舞伎芸術家と一緒に演出したことを代表として今まで語られている。
梅蘭芳氏は、20代で京劇の「四大名旦(旦は女形の意)」のトップを極めた世界的に有名な京劇芸術の大家である。
梅蘭芳氏はその生涯に三度訪日公演を行い、中国の無形の国宝である京劇を日本国民に紹介した。
1919年4月、梅蘭芳氏は日本初公演を行い、日本の観衆は梅氏を通して初めて触れる中国の京劇にすっかり魅了されてしまう。
1924年、日本で関東大震災が発生し、梅蘭芳氏は日本の復興事業を支援するため、再度劇団を率いて日本に赴く。
梅氏は歌舞伎俳優とともに舞台を踏んで15回の舞台をこなし、大阪でも5回の公演を行って、その興行収益のすべてを日本の被災地に寄付した。
1956年、62歳になった梅蘭芳氏は、中日友好を促進するため、三度目の訪日公演に赴いた。
このときの訪日公演には、梅蘭芳氏が開いた流派、「梅派」の継承者である息子の梅葆玖氏も同行し、53日間に32回の公演を行って日本でセンセーションを巻き起こした。
三度の日本公演を行った梅蘭芳氏だが、その時代背景は毎回違っていた。
違わなかったのは、梅蘭芳氏に対する日本側の歓迎ぶりである。
東京、大阪、京都、神戸……、梅氏は行く先々で梅蘭芳ブームを巻き起こした。
2001年9月、梅蘭芳没後40周年のこの年、息子の梅葆玖氏が梅蘭芳京劇団を率いて日本を訪れ、亡き父の足跡を辿った。
9月9日から15日にかけて梅蘭芳京劇団は東京国立劇場で7回の公演を行っている。
京劇と歌舞伎は共演という形で交流を重ね、梅蘭芳氏も多くの歌舞伎俳優と厚い友情を結んでいた。
梅蘭芳氏は、歌舞伎を日本で最高の伝統舞台芸術と認めていた。
1955年と1979年に、日本の歌舞伎芸術家が訪中公演を行い、梅葆玖氏も歌舞伎の大看板である市川猿之助氏の1955年の北京公演を観ている。
また、梅蘭芳生誕110周年の2004年5月にも、日本の歌舞伎が中国の舞台で演じられた。
日本の歌舞伎芸術家、坂東玉三郎氏は自らが演じる『楊貴妃』に、梅派の演技を取り入れている。
「玉三郎さんは北京に来て、私に楊貴妃を習ったことがある。
有名俳優の気取りはまったくなく、とても謙虚な方であった。
一方で型を習いながら、一方で独自の演技を創造されていました」と、梅葆玖氏は玉三郎氏の印象を述べ、「京劇も歌舞伎も形式こそ違いますが、同じく東洋の芝居である。
ですから、その魂には相通じるものがあります」と語った。
日本の歌舞伎の中国京劇がとても多いことがあるような地方、“女装します”の役はその中の1つである。
そのような役は歌舞伎の中で“女性の形”を叫んで、京劇の男性の朝に相当する。
民間娯楽活動として、歌舞伎と京劇はその生まれから庶民文化と不可分な関係を持っている。
そして、東方伝統文化の影響でまた長い間の中日両国の相互交流と影響で、京劇と歌舞伎は芸術特徴には総合性、程式性などいくつかの共通性が存在している。
3.2歌舞伎と京劇の相違点京劇は徽劇の変遷があったので、乾隆年間(1840年の前後に)の形成の。
歌舞伎は普通は時代の初期江戸(の江戸の時代に起源するのが江戸の幕府が1603から日本の年代,を統治するのだと思っています――1867まで)、雲を出すみこの女性の阿国は歌舞伎の基礎を定める始祖である。
最初は能の舞台の上で公演の念仏を唱えて踊る。
後から来て、阿国の出演はとても人気があって、多い芸能で生計を立てる女子に合い争ってまねるように引き起こして、そこで産することは女性の歌舞伎になった。
歌舞伎と京劇の起源は完全に異なっていて、源がない。
歌舞伎は、日本のこくげきとして知られている。
中国の京劇は、その共通する特徴と、それらはすべて民間で生むのだならば、民衆の支持の基礎の上に発展し、両者はすべて歌舞の宴会のストーリの性質である。
その上、芝居の本来の特性、趣に関わらずから、それとも文化の内包、審美の意識などの多い方面はすべて非常に似ている地方を持っていく。
もちろん、自然環境と社会生活の構造のと違い、各民族の間はどのみち互いに異なる所がある。
すべての民族の文化芸術はいつも自分の独特な風格の特色があって、京劇と歌舞伎の違うところも非常に明らかである。
まず、京劇は役者が歌うことからを中心にするのです。
京劇の役者のが技を歌うのは最も重要な条件で、中国人は京劇の審美の標準に対して“観劇します”の基礎の上の創立した。
歌舞伎は“観”を審美の標準にして、歌舞伎の役者は自分で歌わないで、ただ“言います”と“します”だけ。
歌舞伎は公演の中で役者の条件に“1目、2調子、3姿”なように求める。
目は眼色を指して、調子は音色を指して、姿は動作の姿である。
歌舞伎の芸術の出演の中で、役者は主に拠り所の“芝居(まね)をします”、“ダンスがからかいます”で、および“7、5の調子”の主とする独白、対話などのせりふは劇の筋を述べにくる。
歌舞伎の役者は鍛えて表現する演技を重視して、主に“します”の技量で、“芝居(まね)をします”が観衆に“見ます”をあげるので、“ボイストレーニング”の節回しの“劇を演じます”が観衆に“聞きます”をあげるのではない。
たとえせりふの上にいくつか役者がいますとしても、多くで独特なことすばらしい場所がもいてと、出演の中で人々の喝采を勝ち取って、あれも“言います”と“します”の結び付ける適切さのためである。