第16课 神の见えざる手
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第十六課東京見物单词見物(観光などをする)游览、参观彼は劇場で芝居を見物していた。
修学旅行で奈良を見物する。
見物席見物人見物客広がる <-> 狭まる1(広くなる)变宽,拓宽,舒展道幅が広がる。
2(広まる)扩展,蔓延,传开全世界に広がる。
伝染病(うわさ)が広がる。
立ち並ぶ(立って並ぶ。
建て物の場合には「建ち並ぶ」とも書く)排列, 鳞次栉比表通りには商店が立ち並んでいる。
道にそって立ち並ぶ桜の木。
栄える(〈経済力や権力を得て〉勢いが強くなる)兴旺,繁华店が栄える。
京都に栄えた平家(へいけ)の一族。
溢れる(そこに収まらなくなって、一部が外に出てしまう)溢出,充满大雨が降って川が溢れそうだ。
聴衆が会場に溢れる。
子どもたちは元気に溢れている。
彼の心は喜びに溢れている。
親しむ1(親近感を持つ)亲近,亲密友と親しむ。
子供の時から親しんできた友人。
2(常に接して、楽しむ)喜好,爱好この音楽は日本人に親しまれている。
比べる(二つ以上のものの強さや大きさ、性質、値うちなどのちがいをしらべる)比,比较田中さんと比べると、山田さんのほうが背が高いですね。
今年の冬は去年に比べて少し寒いようです。
どっちがおいしいか、食べ比べてみてください。
力くらべ腕(うで)くらべ賑わう1(人•物がたくさん出そろって、活気がある)热闹,拥挤大売出しで店は賑わっている。
年末で往来は賑わっている。
2(商売•取引が盛んで繁盛する)扩展,蔓延,传开大阪は昔から商業都市として賑わってきた。
移す1(場所や位置をかえる)搬,移,迁家を東京に移す。
つくえを窓のそばへ移す。
2(病気などを人に伝染させる) 传染インフルエンザを移される。
弟に風邪を移した。
集中(精神や物事を一つの所に集めること、また、集まること)集中精神を集中して花を生ける。
質問を首相に集中する。
人口が都市に集中する傾向がある。
防ぐ(悪いものが来ないようにして自分を守る)防止,防备寒さを防ぐにはストーブがいちばんいい。
日语精读第16课16歩くと生きるカが湧いてくる现代社会的另一面就是能力社会。
以个人能力为中心的社会。
即使在高龄化社会这点也不会变。
那时尤其重视知识、技术能力。
但是,除了重要的能力之外,也必须有体力和人性方面的能力。
体力是人最基本的能力。
虽然说没有一个健康的身体什么都不从谈起有点夸张,但如果没有一个健康的身体,可以说把想要的东西弄到手是很困难的。
本来我们出生然后死去,这都是命中注定的、这其中最大的目标是什么?那应该是幸福的生活吧。
问题是所谓的幸福生活又是什么呢?关于这个问题的答案会因人而异、不管是什么样的答案,如果给他人造成烦恼的话,暂且不说性质。
在此基础上在说就是另一点了。
换言之身体作为幸福的容器,其内容要有人的能力。
所谓人的能力,用一句话说的话,就是获得什么样的感受、收获什么,然后是如何去行动的问题。
在发挥认得能力的基础上获得更大的刺激,就会得到金钱、物质,或者是名誉、权利吧。
很多人从中感到幸福是事实,那些虽然是必要条件但不是充分条件。
不管有多少知识还是技术能力,不论是金钱、物质等现实的幸福,如果作为其载体的身体处于非健康状态,从现实的意义来讲,真的幸福吗?日本的教育过于偏重知识和技术的学习,因此形成现在的学历社会,最后出现了头重脚轻这样不协调的人。
因此,引起各种各样的社会问题也是众所周知的。
从偏重知识、技术的思考方法到自我解放,一生中想正视自己人生的人,我认为作为生物体的人能够称得上幸福的根本的首先是健康。
那是第一步,也就是走,了解到其巨大的价值后,在去实行。
经常会有人说“只是走路,有点傻,根本算不上运动。
”“走路是闲人干的事。
”说这些话的人有一个共同点,那就是不运动,连走路这种基本的运动都不做。
运动的人知道运动的好处。
好处就是开心。
走路也是同样的道理。
做自己喜欢的事,会对身心产生好的效果,而这个好的效果首先反映在身体上,然后在传递给大脑。
这种运动的快乐由身体感觉到,是不存在意识的。
----------------对于那个人而言,运动就成为他生活的一部分。
16歩くと生きるカが湧いてくる现代社会的另一面就是能力社会。
以个人能力为中心的社会。
即使在高龄化社会这点也不会变。
那时尤其重视知识、技术能力。
但是,除了重要的能力之外,也必须有体力和人性方面的能力。
体力是人最基本的能力。
虽然说没有一个健康的身体什么都不从谈起有点夸张,但如果没有一个健康的身体,可以说把想要的东西弄到手是很困难的。
本来我们出生然后死去,这都是命中注定的、这其中最大的目标是什么?那应该是幸福的生活吧。
问题是所谓的幸福生活又是什么呢?关于这个问题的答案会因人而异、不管是什么样的答案,如果给他人造成烦恼的话,暂且不说性质。
在此基础上在说就是另一点了。
换言之身体作为幸福的容器,其内容要有人的能力。
所谓人的能力,用一句话说的话,就是获得什么样的感受、收获什么,然后是如何去行动的问题。
在发挥认得能力的基础上获得更大的刺激,就会得到金钱、物质,或者是名誉、权利吧。
很多人从中感到幸福是事实,那些虽然是必要条件但不是充分条件。
不管有多少知识还是技术能力,不论是金钱、物质等现实的幸福,如果作为其载体的身体处于非健康状态,从现实的意义来讲,真的幸福吗?日本的教育过于偏重知识和技术的学习,因此形成现在的学历社会,最后出现了头重脚轻这样不协调的人。
因此,引起各种各样的社会问题也是众所周知的。
从偏重知识、技术的思考方法到自我解放,一生中想正视自己人生的人,我认为作为生物体的人能够称得上幸福的根本的首先是健康。
那是第一步,也就是走,了解到其巨大的价值后,在去实行。
经常会有人说“只是走路,有点傻,根本算不上运动。
”“走路是闲人干的事。
”说这些话的人有一个共同点,那就是不运动,连走路这种基本的运动都不做。
运动的人知道运动的好处。
好处就是开心。
走路也是同样的道理。
做自己喜欢的事,会对身心产生好的效果,而这个好的效果首先反映在身体上,然后在传递给大脑。
这种运动的快乐由身体感觉到,是不存在意识的。
----------------对于那个人而言,运动就成为他生活的一部分。
第十六課 これを中国ちゅうごくへ 送おくってください。
我在镰仓买了一些礼物,也准备了送给妈妈的!我妈妈在中国农村生活每天很辛苦,但是为了实现我的梦想,花了不少的钱让我去日本留学。
我非常感谢她!所以,我回东京就去邮电局给她寄钥匙圈和日本馒头。
从日本往海外寄东西还是很贵啊! 「これを 中国に 送ってください。
」新出単語関連単語かんれんたんご「ママ」是自己叫自己妈妈的时候。
「母はは」是自己对别人叫自己妈妈的时候。
「お母かあさん」是自己叫别人妈妈的时候。
「パパ」是自己叫自己爸爸的时候。
「父ちち」是自己对别人叫自己爸爸的时候。
「お父とうさん」是自己叫别人爸爸的时候。
「見みる」 看的敬体,敬体以后会学→「ご覧らんください」「海うみ」 海「火ひの海うみ」火海 「緑みどりの海うみ」绿色的海洋(森林是绿色的海洋)「如何いかがですか。
」怎么样=「如何どうですか。
」「有ゆう名めい」有名→ 「名めい物ぶつ」特产「名めい物ぶつ」 也是土产的意思,但是这个土产特指当地的土产。
「お土産」是买来「名めい物ぶつ」土产用来送人的叫土产。
举个例子当然我在上海,买五香豆送给外地的朋友叫「お土産」,而送给上海的朋友叫「お土産」肯定给人爆出去啊(笑)。
「力ちから」 力量+「強つよい」强=「力ちから強づよい」强有力、矫健。
注意「強つよい」的「つ」变成浊音「づ」。
「作品さくひん」作品→「作文さくぶん」作文「手ごろだ」合适的 手ごろな値段——合适的价格「コーナー」角落→「隅すみ」角落→ 隅すみに置おけない 惯用语不可忽视「饅頭まんじゅう」特指豆沙包,「饅頭まんじゅう」和包子我也搞不清楚,有的地方带馅的叫馒头,比如上海话,就叫肉馒头、菜馒头、豆沙馒头,有的地方不带馅的叫馒头,比如山东的高庄馒头。
在日本一般的家庭是做不了馒头的,因为他们不会发面,都是工厂做的。
「肉饅頭にくまんじゅう」 肉馒头→「餡子あんこ」馅「人気にんき」人缘、人气→「人気にんきがある」有人气。
生命中,不断地有人离开或进入。
于是,看见的,看不见的;记住的,遗忘了。
生命中,不断地有得到和失落。
于是,看不见的,看见了;遗忘的,记住了。
然而,看不见的,是不是就等于不存在?记住的,是不是永远不会消失?第16課帰ってもいいです(1)帰ってもいいです。
会社を休んでもいいです。
風呂に入ってはいけません。
会社を休んで病院へ行きます。
病院へ行って診察を受けます。
薬をもらってから、帰ります。
(2)田中さんは今朝熱が38度ありました。
頭痛がして、食欲がありませんでした。
今日は会社を休んで、病院へ診察を受けに行きました。
田中さんは受付に診察券を出してから待合室に入りました。
待合室には大勢の人がいました。
30分くらいたって、看護婦さんが田中さんの名前を呼びました。
田中さんは診察室に入りました。
(3)医者:田中さんですね。
どうしましたか。
田中:熱があって、頭が痛いです。
医者:ずいぶん喉がはれています。
風ですよ。
注射をしましょう。
田中:少し痛いですね。
今日は風呂に入ってもいいですか。
医者:いいえ。
入ってはいけません。
家へ帰ってゆっくり休んでください。
田中:もう帰ってもいいですか。
医者:ええ、いいですよ。
薬をもらってから、帰ってください。
薬は食後に飲んでくださいね。
田中:ありがとうございました。
医者:明日、もう一度来てください。
どうぞお大事に。
単語やす休む②[自一] 请假ふろ風呂②[名]澡盆,浴池しんさつ診察⓪[名]看病(给人治病)う受ける②[他五] 接受けさ今朝①[名]今天早晨ねつ熱②[名]热度,发烧ずつう頭痛⓪[名]头疼しょくよく食欲⓪[名]食欲うけつけ受付⓪[名]挂号处しんさつけん診察券④[名]挂号证まちあいしつ待合室③[名]候诊室た立つ①[自五] 时间的流逝かんごふ看護婦③[名]护士よ呼ぶ⓪[他五] 叫,换しんさつしつ診察室④[名]门诊室いしゃ医者⓪[名]医生,大夫いた痛い②[形]痛,疼ずいぶん①[副]非常のど喉①[名]嗓子はれる⓪[自一] 肿かぜ風邪⓪[名]感冒ちゅうしゃ注射⓪[名]打针たばこ煙草⓪[名]香烟す吸う⓪[他五] 吸あ開ける⓪[他一] 打开ゆっくり③[副]慢慢德,充分地しょくご食後⓪[名]饭后だいじお大事に⓪[寒暄] 请多保重かまいません⑤[寒暄] 没关系,不要紧附:身体各器官名称からだ体⓪[名]身体あたま頭③[名]头かみ髪②[名]头发め目①[名]眼睛はな鼻⓪[名]鼻子くち口⓪[名]嘴は歯①[名]牙齿みみ耳②[名]耳朵かお顔⓪[名]脸くび首⓪[名]脖子うで腕②[名]胳膊て手①[名]手あし足②[名]脚文法1てもいいです/かまいません表示许可时,使用“动词て形+ も+ いいです”。
第十六課東京見物日本へ訪問研修来た李さんは小島さんに案内されて、東京見物をしました。
東京は日本の政治の中心であるばかりでなく、経済、教育、文化などの分野でも日本の中心地になっています。
皇居は東京の真ん中にあります、東京に市街はここを中心にくもの巣のように広がっています。
霞が関や丸の内、銀座などは都心とよはれています。
都心には官庁や大きな会社、銀行なその立派なビルが立ち並んでいて、大势の人が働いています。
一方、新宿渋谷、池袋などは副都心とようばれ、買いものや娯楽の町として栄えています。
浅草は庶民の町として昔から有名です、今でも銀座や池袋なそと違って下町の雰囲気にあふれた町として人々から親しまれています。
小島: 李さんは、東京は始めてですか李: ええ、東京はにほんの首都ですから、にほんの政治の中心といえるでしょうね。
小島: ええ、そればかりでなく、経済、教育、文化なその分野でも東京はにほんの中心地になっていますよ。
李: そうですね、東京都の面積はそうのくらいですか。
小島: 二一六六平方キロメ一トルぐらいです。
李: 大都会ですね、人口から言いえば東京は今千二百万ぐらいでしょう。
小島: ええ、東京全体の人口を外の都市と比べると、そうかもしれません。
けれども、二十三区だけなら、そうでもありませにょ。
李: そうですか。
小島: では、地図を見ながら、東京をご案内しましょう。
李: ようろしくお願いします。
(皇居とそも周辺)小島: ここが皇居前広場です。
李: 皇居は東京の真ん中にあります。
東京の町はここを中心にしてくもの巣のように広がっています。
小島: この通りは美しい散歩道になっていて、一週すると、一時間半もかかります。
李: ほら、人々がそこでバレ一ボ一ルやバドミントンをしていますね。
小島: ええ、それは近くの会社や役所で働いている人たちです。
毎朝、ここでマラソンをする人も大势いますよ。
李: そうですか。
あそこにバスがたくさんとまっていますね。
神の見えざる手
見えざる手(英 invisible hand)とは、アダム・スミスの言葉であり、国富論の第4編第2章に現れる術語であり、古典的自由主義経済における市場仮説を指す。
神の見えざる手(invisible hand of God)という名でも知られる。
概要
市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方。
スミスは個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が神の「見えざる手」によって達成されると考えた。
スミスは、価格メカニズムの働き、最適な資源配分をもたらすもの、つまり需要と供給のバランスは自然に調節されると考えた。
スミスはそのために、国家は国防・警察・教育等の必要最小限以外の経済活動への参入を否定し、あとは市場機構による経済の発展を重視すべしとの立場をとり、国家の経済への介入を批判した。
スミスの国家観は「夜警国家」のそれであったということができる。
市場法則を神の摂理のようなドグマとして捉えたところに、実際の経済での検証の不足かつ、無責任かつ楽観的な考え方であるとする指摘もある(ジョン・メイナード・ケインズやその後継者達、市場の失敗、外部不経済、、フリーライダー、流動性の罠)。
さらに現実の市場参加者であるヘッジファンド創設者ジョージ・ソロスは「市場は必ず間違っている」と発言している。
また「市場は常に弱者、つまり確固たる信念を持たない投資家を完膚なきまでに叩きのめす。
」とも言っている(情報の非対称性)。
アダムスミスの仮説は、後の新自由主義やマネタリストのイデオロギーとなった。
『国富論』の大部分はヒュームやモンテスキュー、そして重農主義者チュルゴーといった思想家によって既に確立された理論の焼き直しと言われるものの、市場とそこでおこなわれる競争の重要性に着目することによって、近代経済学の基礎を確立した名著であることに変わりはない。
「見えざる手」という言葉は、この著の第四篇第二章で1回使われているだけにも関わらず、非常に有名である。
この文句の意味は、個人による自分自身の利益の追求が、その意図せざる結果として社会公共の利益をはるかに有効に増進させるというものであった。
ワシントン・コンセンサス(Washington Consensus)とは、ワシントンDC所在のシンクタンク国際経済研究所(IIE)の研究員で国際経済学者のジョン・ウィリアムソン(John Williamson)が1989年に発表した論文の中で定式化した経済用語である。
この用語は元来、80年代を通じて先進諸国の金融機関と国際通貨基金(IMF)、世界銀行を動揺させた途上国累積債務問題との取り組みにおいて、「最大公約数」(ウィリアムソン)と呼べる以下の10項目の政策を抽出し、列記したものであった。
(1)財政赤字の是正、(2)補助金カットなど財政支出の変更、(3)税制改革、(4)金利の自由化、(5)競争力ある為替レート、(6)貿易の自由化、(7)直接投資の受け入れ促進、(8)国営企業の民営化、(9)規制緩和、(10)所有権法の確立。
神の見えざる手
「神の見えざる手」
これはアダムスミスの有名な考え方ですね。
要するに「みんなが自由にものを作って、自由に取引すれば、経済はうまくいく」、というものです。
現代の資本主義経済の基礎的な考え方です。
それまでは、「労働はダサい」「金儲けは悪」とされていましたが、スミスはここで、「労働は人間にとって必要なものだよ。
それに、金儲けだっていいじゃないか!」と言ってみ
んなの考え方を変えていったのです。
特に商売については、「みんなが自分の利益を追求して、一生懸命働けば自然と経済がうまくいくのだ!」と言って、労働、利己主義、自由にお金儲けを行うことを良い事としました。
現代の先進国では、買いたい物はほとんど過不足なくありますね。
でもそれは、政府の偉い人が「今年はチョコボールがたくさん売れそうだな、、、。
よぅし、1万箱作りなさい」とか決めているわけじゃない。
ましてや占い師が占っているわけでもない。
1万箱売れる場合には自然に1万箱生産されるのです。
今年何がどれだけ売れるかなんて誰も予測できないはずなのに、結果的には大体必要な量だけ供給されている。
不思議ですね。
なんでだろう?♪なんでだろう?♪
これがアダムスミスが言った「神の見えざる手」なのです。
みんながもっと儲けようとして、自分の利益を追求していくと、自然とバランスが取れるのです。
どういうこと?
説明しましょう。
もしチョコボールの人気が高くなって商品が足りなくなってきたらどうなる?チョコボールの値段が上がりますよね。
そうすると、みんな「おっ!チョコボール作ったら儲かりそうだぞ!」と言って、どんどんチョコボールを生産し始める。
でもそうなると、だんだん供給量も増えてきて、需要と供給のバランスが取れ、値段が下がってくる。
希少価値がなくなるからね。
そうすると今からチョコボールを生産しても儲からないから、オレはやめておくよ」となって生産量はそれ以上増えません。
結局、需要にあわせて供給が増えて、うまくいくのです。
逆に売れない商品の場合はどうなるか?売れない商品は、需要より供給の方が多いので、売れ残る。
売れ残るとお店は値段を下げて売ろうとする。
だからその商品の価格が下がります。
商品の価格が下がると、「これを作ってても儲からないなぁ。
違うもの作った方が儲かるから、これはもう作るの止めよう」といって、どんどん生産を止めていきます。
その結果、供給量が減って、需要とのバランスが取れてくる。
だから結果的に需要と供給のバランスが取れて、うまく行くのです。
このように、みんなが自分の利益を求めて自由に商売すると、経済がうまくいくのです。
これが「神の見えざる手」。
この考え方は現代にも引き継がれていて、日本にも「政府は経済活動に介入すべきではない」という意識が根底にあります。