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歌舞伎和京剧比较

歌舞伎は日本の一種の伝統的な芸術文化として、昔から今まで伝えられている。四百年の風雨を経て、歌舞伎はますます華美になるようだ。
歌舞伎は若者にとって、神秘、見知らぬものだ。この論文の中で、私は歌舞伎の歴史、特徴、演じる内容、脚本家などいろいろな基本的な知識を紹介している。もちろん、私にとってもっとも大切なことは歌舞伎と中国の文化を結び付けて考えることである。いろいろな資料を見た後、歌舞伎の起源と中国の古代文化が緊密な関係を持っていることを確認した。中国の古代文化は歌舞伎の形成にとって、大きく貢献した。 
そして、歌舞伎はまた私に中国の芝居、京劇を思わせた。京劇は歌舞伎と同じで、長い歴史をもって、両者は「東方の伝統芸術の姉妹花」と称される。比較によって、異なる国に属しても、似ているところが沢山ある。そして、「西太后」、「出世太阁記」などという中国の芝居は改編されて、二十世紀の歌舞伎のレパートリーになった。近年来、中日両国の芸術家が交流して、いろいろな合作の過程の中で、出演風格、服装化粧、表現技巧、舞台背景という方面で、歌舞伎は中国芝居の表現方法を吸収している。
歌舞伎はもう四百年の風雪を乗り越えてきた。時間に磨かれていることを通って,ますますまばゆいばかりに美しくなると信じる。

キーワード:歌舞伎 演劇 京劇 伝統 文化




序 論

日本はいろいろな文化がある国家である。その中で、私にとっては、一番興味を持っているのは歌舞伎である。
歌舞伎は日本に特有な文化で、世界の中で唯一無二のものである。中国人である私にとっては、歌舞伎も一種の神秘的な文化である。神秘である上にさらに「美」がある。それが、私が歌舞伎に深く引きつけられている理由である。
日本で歌舞伎は伝統文化として昔から伝わってきている。これは中国の京劇によく似ている。歴史が長く、月日が流れるにつれて、この文化はますます完璧になっている。これはもう文芸というだけではなく、文化の象徴になって
いる。歌舞伎を見れば文化の薫陶を受けることができる。
私は歌舞伎に接触してから、特別なものと思っているので、インターネットで調査した。歌舞伎はいったいどのような文化であろうか、いつ形成されたのか、どんな内容を演じるのかなどいろいろな問題を知りたい。歌舞伎は現代の演劇映画と異なる。人物の姿、会話のしかた、演じる内容など、難しいが、面白

い。
日本では、最近、若い歌舞伎役者が、若者に人気があるらしいが、中国では、若者は歌舞伎などの古い文化があまり好きではない。流行を追いかけることがすきだ。これも私が歌舞伎について書く理由だ。私のような若者に歌舞伎を理解してほしいと思う。




本 論 
―歌舞伎の起源―
歌舞伎は十七世紀に出雲地方の舞踏からうつり変っていく舞踏芸術である。日本の代表的伝統演劇の一つで、1603年ごろ出雲大社の巫女?阿国が京都で念仏踊りを興したのがはじめとされている。人気が出たが、女性の歌舞伎は風紀を乱すと禁止され、若衆歌舞伎を経って、筋立てに重点をおく。野郎歌舞伎に発展して現代に至る。そのために、歌舞伎においては男性役も女性役も、すべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の練熟の中で洗練されて完成し、独特の美の世界を形成する。中世の能楽が貴族階級に育成された芸術だとすれば、歌舞伎はまったく民衆の支持の下で発展してきた群衆演劇である。

以下に歌舞伎の語源を記す。
―歌舞伎の語源―
カブキは漢字で書けば、「傾き」である。「傾く(かぶく)」という動詞の連用形の名詞用法である。「傾いている」「真っすぐでない」「正しい道筋からはずれた行動する」「勝手気ままにふるまう」。ことに、「異相」、普通でない風姿。それがカブキという言葉のもともとの意味である。「正しい道筋からはずれた行動をする」。つまり世間の秩序に反し、伝統や権威や常識などに反発して、自己を強く主張して生きてゆく。そういう生き方をする自己顕示欲の強い人々をカブキ者と呼んでいた。16世紀の末から17世紀の初めころのことである。日本のカブキ踊りに始まり、時々の社会が生み出すカブキ者を主人公として発展しながら、カブキ者を描き続けることによって歌舞伎はカブキでありえた。

カブキ者とは社会秩序から疎外された人間でアイデンティティを喪失し、両義的生に引き裂かれて生きる人物、また、下降した社会的立場に自分の人生を一致させて生きるドロップアウトした人々、あるいは、両義的な生的状況の消滅によって、アイデンティティのありかが見えなくなってしまった人々、もしくは、社会秩序を自ら疎外して生きる、自我に目覚めた孤高の反秩序存在である。(『歌舞伎の歴史』)

―歌舞伎の発展―
元禄:
1680年以後、即ち、元禄時代に入ってから、歌舞伎は成熟する段階になった。上方では柔かな恋

愛物の演劇「和事(わごと)」の坂田藤十郎が、また江戸時代では勇壮な荒武者などの演技「荒事(あらごと)」の市川団十郎が活躍する。有名な劇作家近松門佐衛門は多くの歌舞伎脚本を書いた。
元禄以後:
元禄以後の歌舞伎の題材は以前よりもっとも広がりを見せる。多くの早期の
—2—
歌舞伎は能と狂言の筋を脚本としたものである。近松につづく脚本家は現実の生活を反映することを重視し、脚本の題材はとても豊かである。上方の並木正三は浄瑠璃から劇的要素を取り入れ「廻り舞台」などの大仕掛けな舞台を現出した。また、上方の並木五瓶は上方と江戸の両方で活動し、上方の写実合理性を江戸歌舞伎に融合させた。
江戸末:
歌舞伎の中心は江戸に移り、写実性の強い生世話物(きぜわもの)を得意とする鶴屋南北(四世)が『東海道四谷怪談』などの傑作を残した。江戸末期から明治初期にかけては、河竹黙阿彌が活躍した。彼は一生の中で約三百六十本の歌舞伎脚本を書いた。即ち、『三人吉三巴狼』、『七蜘蛛』などいろいろ作品がある。
明冶初期:
明治初期の演劇は歌舞伎を主とする。河竹黙阿彌は河黙阿彌と改名して、新しい脚本を書いた。すなわち、「生きる歴史の芝居」である。俳優は九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、市川左団次を中心としている。この時の日本演劇界は欧米文化の影響をうける。しかし、歌舞伎と欧米の演劇を結合する問題がよく解決されなかった。明治二十二年には、東京に歌舞伎座を建てた。これはもっとも新しい大きな歌舞伎劇場である。欧米文化の影響の下で、新しい歌舞伎ともいえる「新劇」ができた。ヨーロッパやアジア、アメリカなど海外公演も盛んになり、ヨーロッパ歌舞伎会議やヨーロッパ日本演劇研究センターなど西洋人学者の研究組織も成立した。
日本の歌舞伎は、形成期から現在まで、歴史は四百年にもなる。この発展する過程の中で、代々の舞台芸術家の長い探求と創造を通じて、彼らのあらゆる苦労のおかげで、日本の民族の特色に富んだ華美な芝居体系を形成する。 

―歌舞伎は中国文化の影響を受ける―
歌舞伎の芸術変化の過程は終始中国の伝統文化というこの根から離れていないのだ。日本伝統芸術の「芝居」の誕生、発展、形成が中国伝統文化芸術と緊密に結びつく。日本の舞楽、能、狂言は中国文化の精華のもとで、日本自身の伝統文化をむすびつけて、形成された民族芝居

である。歌舞伎はまた舞楽、能、狂言、浄瑠璃という「芝居」のもとで、直接に中国伝統芝居の芸術栄養を吸収して、それから、摂取、消化、分解、日本江戸庶民の審美の情趣に溶けあって、芸術を再生する軌道に取り入れてから、新たに創造している日本民族芝居である。
民族芸術を創造している歴史の過程の中で、歌舞伎は誕生の十六世紀から十九世紀まで、一貫して中国の伝統の演出のレパートリーにも、歌舞伎の演出している舞台にも、すべて中国伝統の芸術文化の痕跡を残した。
たとえば、日本でとても人気がある中国の玄宗皇帝と杨贵妃の愛情物語は歌舞伎の舞台で上演されたことがある。日本の演劇の資料の記録によって、天文十三年、日本で奈良多峰の妙楽寺で、歌舞の形式で、「玄宗皇帝幸月宫事」を演じたという。
—3—
二十世紀の歌舞伎の舞台で、「西太后」、「出世太閣記」などいろいろな中国の芝居は改編されて、歌舞伎のレパートリーになった。近年来、中国両国の芸術家たちが交流して、いろいろな合作している過程の中で、出演風格、服装化粧、表演技巧、舞台背景という方面で、歌舞伎は中国の芝居の表現方法を吸収した。 
―京劇の歴史―
日本には歌舞伎があるが、中国には京劇がある。京劇と歌舞伎は中日両国の伝統的な芸術である。
「東方のオペラ」と言われる京劇は、中国文化の一つで、北京で生まれたことからその名が付いた。
京劇には200年あまりの歴史がある。その由来はいくつかの古来の地方劇に遡り、中でも、十八世紀に流行していた中国南方の地方劇「徽班」の影響が大きい。1790年、最初の徽班が上京し、皇帝の誕生慶賀公演に参加した後、いくつもの徽班が相次いで上京した。徽班はほかの芝居の演目や表現方法を吸収するのに長けていた。当時から北京には数多くの地方劇が集まっていたため、上京した徽班は、他の地方劇を積極的に取り入れ、その芸術性を著しく向上させた。その後、十九世紀から二十世紀初め、数十年をかけて京劇が形成され、中国最大の演劇文化となった。
―歌舞伎と京劇の比較―
歴史から見れば、中国の京劇は歌舞伎より、200年ぐらい遅く形成された。
京劇は「唱」(歌い)、「念」(読み上げ)、「做」(演技)、「打」(立ち回り)、「舞」(踊り)を一体に、決まった型を通して物語を展開し、人物を描写する総合的舞台芸術である。歌舞伎は一般的に歌う言葉、せりふ、踊りの三つの部分からな

っている。
京劇の役柄は主に生(男性)、旦(女性)、浄(男性)、丑(男性も女性も兼ねる)の四つに大別される。このほか、脇役の役柄もある。
歌舞伎は役者の分類、典型化、人間性、年齢、論理的性格を基準として行われる。性別によるものとは、男と女である。年齢別によるものには、成人と未成人、老人と若者という二つの尺度がある。論理的性格によるものとは、善の立場に立つものと悪の立場に立つもの。その結果、六種の役柄が成立した。立役、女方、若衆方、新仁方、適役、花車方、それに、粗忽者や阿呆を演じ、もっぱら観衆を笑わせる役をつとめる道化を加えた七種の役柄をもって基本とする。

以下に、歌舞伎の役柄を示す。
―歌舞伎役柄に関する言葉― 
赤っ面
顔を赤く塗ったら皆赤っ面かとゆーと、そうではなくて、赤い顔をした小僧らしい適役を指す。さほど偉いもないのに威張り散りしたりする小役人などに多い。本当に憎くい大悪党は青白い顔をしているので、違いを観察すると面白いと思う。
親仁方
歌舞伎の「おやじ」はイコール爺。見りゃ分かる。白髪にシワだもん。現代じゃあ「おやじ」の守備範囲は相当広い。OLにだっておやじがいるからね~。
花車方
中年以上の女性の役のこと。「花車」って、花街の茶屋女房や仲居さんのことを言うんだって。だから、本来は、そうした役柄を指していたのかもしれないけど、いまでは老女の役までをも含めての総称になってるらしい。 
敵役 
ヒーロー、ヒロインに対する悪人の役の総称。つまりは嫌われ役なんだけど、その役によっては役者の技量を要求するものもある。
 立役
 男役のこと。
若衆 
前髪のある少年の役。きりっとしてるんだけど色っぽい。少年の美を売り物にするジャニーズ系アイドルのようなもの。
 道外方
 文字どおり滑稽な役。おどけて観客を笑わせる。つまりは三枚目。この手の役は、見るからに道化と分かるヘンテコな髪型のかつらをかぶっていたり、メイクをしていたりするから分かりやすい。けど、言ってること、やってることが笑えるかどうか、はまた別モノ。笑いは多分に時代の空気とか身体感覚と密接だと思うから。道化のカタチ、と思って見た方がスカがないだろうなあ。<インターネート>


 歌舞伎と中国の京劇は「東方の伝統芸術の姉妹花」と言われる。清代の詩人、黄遵宪は『日本雑事詩』の中で、歌舞伎と京劇をほめたたえた。しかし、歌舞伎と

京劇の精神の交流は二十世紀初期になってやっと実現した。
1914年四月、日本芸術家、龙居濑三の招きに応じて、京劇の巨匠、梅蘭芳は日本へ公演に行った。梅蘭芳は『虹霓关』、『贵妃醉酒』などよろいろな京劇のレパートリーを披露した。そして、中国の俳優と日本の俳優と一緒に出演している。梅蘭芳の演技は芸術評論家にしきりに褒め称えられた。明らかに、中国の京劇芸術は日本の観衆を魅了した。同時、梅蘭芳はまた守田勘弥などの歌舞伎俳優と楽しく一堂に集まって交流して、お互いに深い感情を結んだ。






—5—
結 論

歌舞伎は生きている。「生きている」とはどういうことか。それは、社会生活の条件、人々の知性や感性の変化にしたがって、常に歌舞伎が変化するということである。歌舞伎はどのようにして生きているのだろうか。古典的なレパートリーが主流を占め、しかも、同じ狂言の繰り返しが多く、新作はほとんど上演されなくなった浄瑠璃は享保以後衰退した。新作がでないということは歌舞伎にとっても致命的である。
新作によって古典が相対化され、古典の現代的意義ないし生命が再発現されるのである。そうでなければ、古典そのものの内容が衰弱し、上演の技術と様式のみが形骸化され、ある種の美の感動は与えても、内容の持つ深い劇的感動は失われてゆく。日本のカブキ踊りに始まり、時々の社会が生み出すカブキ者を主人公として発見しながら、カブキ者をえがき続けることによって、歌舞伎はカブキでありえた。カブキ者とは社会秩序から疎外された人間であり。彼らは社会秩序を自ら疎外して生きる、自我に目覚めた孤高の反秩序的存在である。
21世紀の現代に、彼ら、カブキ者が演ずる舞台を新たに創り出していくことで、歌舞伎は不滅となりうる。
この論文の中で、私は歌舞伎の歴史、歌舞伎の構造、中日国粋の比較、及びなぜ「カブキ」と呼ばれるのか。自らに投げかけたそれらの疑問に答えねばならぬと思ったのが、この論文を書く動機である。私は歌舞伎を詳しく調べる中で、歌舞伎の美を見た。歌舞伎は永遠に日本芸術の美しい花である。














要旨:日本の歌舞伎と中国の京劇は人類文化の宝庫で、各種類の芸術の精華の集まったところと言える。歌舞伎と京劇は集中的に民族の文化素養を体現するができる。数百年ほどの長い歴史を持っている。歌舞伎と京劇は社会の経済、政治、軍事、文化、道徳など諸要素の変

化につれて盛衰していたからこそ歴史のもっとも真実で生き生きとしている記載ともいえる。したがって、この文章は歌舞伎と京劇の研究を通して、我々は青年学生は中日両国の伝統的な文化を深く了解できるうえに、両国の歴史文化を研究することに役立つ。
キーワード:歌舞伎 京劇 程式性 淵源


摘要:日本的歌舞伎和中国的京剧是人类文化的宝库,可以说集合了各种艺术的精华。歌舞伎和京剧可以集中的体现民族的文化素养,具有数百年的历史。正因为歌舞伎和京剧随着社会的经济、政治、军事、文化、道德等各个要素的变化而兴衰,所以可以说真实的记载了历史。本文通过对歌舞伎和京剧的研究,不仅可以使我们青年学生对中日两国的传统文化有更深的了解,对两国历史文化的研究也有帮助。

关键词:歌舞伎 京剧 程式性 渊源



中日芸術の比較

——日本の歌舞伎と中国の京劇

はじめに

日本の歌舞伎と中国の京劇は東方文化から生まれ、そして、発達してきた。また、中日両国の友好往来の歴史は「源遠流れは長し」であって、両国戯曲も千年以上の相互交流と影響の歴史を持っている。したがって、京劇と歌舞伎の間には似ているところもあるし、違うところも存在している。本文は歌舞伎と京劇を概論敵に説明して、ふたつの劇種の歴史淵源と表現形式を分析するを通して、皆さんに中日伝統的な文化の粋をもっとはっきりに了解させられる。



1.歌舞伎と京劇の概論

1.1歌舞伎

1.1.1歴史

1603 年に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされる。阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったというが、定かなことは明らかでない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。このころは能舞台などでおこなわれており、歌舞伎座の花道は(下手側が本花道、上手側が仮花道であることなども含め)ここから来ていると考えられる。

阿国が評判になると多くの模倣者が現れ、遊女が演じる遊女歌舞伎(女歌舞伎)や、前髪を剃り落としていない少年俳優たちが演じる若衆歌舞伎がおこなわれていたが、風紀を乱すとの理由から前者は1629 年に禁止され、後者も売色の目的を兼ねる歌舞伎集団が横行したことなどから1652 年に禁止され、現代に連なる野郎歌舞伎となった。そのため、歌舞伎においては男性役も女

性役も、すべて男優が演じる。それは江戸時代の文化の爛熟のなかで洗練されて 完成し、独特の美の世界を形成するに至っている。

歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊りと歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊り(若衆歌舞伎はアクロバットなども見せていたとされる)を指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊の項目も参照)。一方、後者は江戸時代の町民に向けて製作されるうちに、現代に見られるような、舞踊的要素を備えた演劇となった。若衆歌舞伎が禁止される際に、幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたことも演劇的発展の一因になった。つまり、幕府は舞踊主体の公演は売色などをともない、風紀上望ましくないと考えていた。演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、歌舞伎狂言とも呼ばれる。これは現代における映画やテレビドラマに相当するだけでなく、さらにはワイドショー的な好奇心を満たす視覚?聴覚を動員したエンターテイメントとして形成されていった。それはいわゆる歌舞伎座、専用形式の劇場への移行と無関係ではない。引き幕によって時間を区切るという演出は物語に時の流れを自然に導入し、複雑な劇の展開を可能にした。また、客席を貫いて歌舞伎役者が登場?退場する花道によって他の演劇には見られないような2 次元性(奥行き)を、またセリにより3 次元性(高さ)を獲得し、高度な演劇へと進化した。

江戸時代の中期までは、上方で創作された歌舞伎狂言の比重は大きい。それは、上方が中心であった人形浄瑠璃から移植された演目の数からもわかる。その後、文化?文政期に鶴屋南北が江戸において多くの作品を創作している。また、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、河竹黙阿弥が多数の作品を創作している。江戸時代後半から、上方と比較して、江戸の文化的発信地としての地位が向上したことがうかがえる。このような歌舞伎狂言は、江戸時代には単に芝居と呼ばれることが多かったようである。

1.1.2.歌舞伎狂言の演劇的要素

現在伝承されている江戸時代に創作された歌舞伎狂言の演目は、大きく分けて人形浄瑠璃(文楽)の演目を移植したものと、歌舞伎狂言として創作されたものがある。人形浄瑠璃の演目を移植したものは丸本物と呼ばれる(義太夫狂言と呼ぶ場合も多いが、これは義太夫を用いる歌舞伎の称であり

、意味するところは多少異なる)。この場合、舞台上手にぶん回しを設置して義太夫の太夫と三味線による演奏が行われる。ただし、人形浄瑠璃ではすべての状況説明とせりふを太夫が語るのに対して、歌舞伎では状況説明を太夫が語り、役者がせりふを語るというような工夫がなされている。本来的に歌舞伎狂言として創作されたものは、基本的に下座での音楽が演劇を演出する。

演劇的な内容としては、歴史的事実を演劇化した時代物、その当時の世界を描写した(現在ならトレンディードラマに相当する)世話物などに分けられる。また、世界と呼ばれる約束事があり、演目の背景となっている物語の基本的な大枠が決まっていた。例えば「太平記の世界」、「平家物語の世界」、「義経記の世界」、「曾我物の世界」、「隅田川物の世界」などがあり、登場人物やその関係などは初めて見物する観客にとってもよく知っている中で、観客は戯作者がどのようにストーリーを展開させるかを楽しむようになった。


1.2京劇

1.2.1中国の国粋の京劇

かつては「京戯」「平劇」「国劇」などとも呼ばれた。台湾(中華民国)は公式には「北京」という呼称を認めていないため、今でも「平劇」「国劇」と呼んでいる。また清末民初まで、単に「皮黄」「大戯」と言えば、もっぱらこの京劇を指す場合が多かった。清朝半ば以来およそ二百年の歴史を持つ、中国最大の地方劇である。

その流行地域は中国本土全省のほか、東南アジア?アメリカ?北欧など、およそ中国人(華僑)の存在するところすべてに及ぶ。また、頻繁な海外公演を通じて、外国にも少なからぬ愛好者?研究者をもち、外国人による英語京劇さえ演じられている(早くも一九三四年、イギリスのロンドンで英語京劇が演じられ大人気を得たという。近年ではハワイ大学が北京で英語京劇を上演した)。日本でも京劇研究会など日本語京劇を上演するグループがある。京劇学校に留学する外国人も結構いるほどである。

ちなみに「京劇」という単語は、中国の地方劇種の名称としては唯一、日本語の辞書にも登録されている。

1.2.2中国の京劇の起源

京劇史についてはいまだに混沌とした部分が多い。京劇の起源をいつに置くかについてさえ定説がない状態である。現在の主な説を年代順に並べると、

乾隆二十五年(一七六〇年)「四大徽班」の北京入城をもって京劇の起源となす説。波多野乾一はこの年を「皮黄紀元」と名付けて提唱した

。ただし現在の中国でこの説をとる研究者は、ほとんどいない。

乾隆五十五年(一七九〇年)、高宗乾隆帝の八十歳の誕生祝いのため徽班が北京に呼ばれたこの年をもって京劇の起源とする説。多くの「京劇史」は、この年から記述を始めている。

道光八年から十二年(一八二八ー三二年)にかけて、楚調(漢劇)の俳優?王洪貴、李六らが北京に進出し、徽班に影響を与えたときをもって京劇の起源とする説。従来の説では、北京にはこの時はじめて湖北から「西皮」が伝わり、これが徽班の「二黄」と融合して「皮黄」すなわち京劇になったと言われていた。新中国以降出版された中国戯曲史の種種の概説書でも、これが定説のごとく扱われていた時期があった。が、近年、実は「四大徽班」の北京進出以前から楚調はすでに北京に進出しており西皮と二黄の融合の時期も再検討を要する、という説が提出されていて、もはやこれも定説ではなくなっている。

道光二十年(一八四〇年)頃から咸豊末年(一八六一年)にかけて、俳優の出身地や使用方言などで、徽班の「北京化」が進んだ時期をもって京劇の起源とする説。

とこれだけの異説がある。結局、京劇の発生が何年からかを決定するのは、一本の川を上流、中流、下流に区分けするのにも似た難しさがある。各説にはそれぞれ根拠とするところがあり、一概に退ける訳にはいかない。確かなことは、京劇の主な源流は徽戯(章の安徽の項を参照)であり、それに漢劇(の前身)の要素が合流し、さらに崑曲はじめ幾多の地方劇の要素が逐次そそぎ込み、曲折を経て今日見られる京劇の形が出来上がった、という事である。

1.2.3京劇に対する人々の好き嫌い

日本人だからといって歌舞伎や義太夫が好きとは限らないように、中国人も、京劇が好きだとは限らない。これは、世代とは関係の無い好き嫌いの問題である。そもそも、京劇の歌詞や文句は、演目にもよりけりであるが、一般的に難しく、普通の北京の人には聞き取れない。むしろ、河北[木邦]子や河南[木邦]子(予劇)の方が耳で聞いてわかるから好きだ、という北京っ子も少なくないほどである。

そういうわけで、知識人が京劇について書いたものも毀誉褒貶が混ざっている。

日本の芥川龍之介は、その『侏儒(しゅじゅ)の言葉』の中で、名優?梅蘭芳(メイランファン)が演ずる京劇「虹霓関」(こうげいかん)を観た感想として 「女が男を猟するのである」と京劇の文学性を絶賛してい

る。

一方、芥川と同時期に中国で活躍した小説家?魯迅(ろじん)は、商業演劇としての京劇をきびしく批判して「社戯」(宮芝居)という短編小説を書いている。一般に、中国近代の知識人の京劇に対する評価は、辛口のものが多いようだ。

第二次大戦をはさんで活躍したドイツの左翼演劇人?ブレヒトも、その「叙事的演劇」論を構築するにあたり、京劇の多大の影響を受けた。

ちなみに、日本の夏目漱石は、京劇について直接コメントこそしていないものの、京劇についての知識は持っていたようだ。漱石は中国に行った経験があり、たぶん、そのとき京劇を見たのであろう。『夢十夜』の第十夜は、明らかに京劇『挑滑車』(ちょうかっしゃ)の翻案である。

1.2.4「地方劇」の王者として中国に君臨しつづけた京劇

京劇のピークは三回ある。道光?同治年間(日本の幕末?明治期にあたる)、程長庚(ていちょうこう)ら老生(おとこやく)の名優が輩出し活躍した時期。清末から民国にかけて、梅蘭芳(メイランファン)ら「四大名旦」に象徴されるように京劇に於ける旦(おんながた)の地位が急速に向上した時期。陳凱歌(ちんがいか)監督の映画「覇王別姫(はおうべっき)さらばわが愛」前半部が描いた時代である。ともあれ、京劇は大清帝国の首都?北京の繁栄をバックに、二十世紀後半に至るまで、一貫して順調な発展を続けていく。途中、わずかな障害がなかったわけではないが、名優が輩出し(多くは安徽?湖北の出身者)、発展に次ぐ発展を重ね、わずかに光緒の一時期、河北[木邦]子に王座を脅やかされた以外は、常に不動の地位を保ってきた。また、京劇の観客層は、北京市民から皇族?満洲貴族まで多岐にわたったが、旧中国でこれだけ広い社会階層の観衆をもっていた事も他の中国地方劇には例を見ない。

2.歌舞伎と京劇の淵源

京劇と歌舞伎の数百年の歴史の間、何回かの協力交流したことがある。淵源がとても深いといわれる。この中でとくに京劇大師と言われた梅蘭芳父子は京劇芸術を日本へ伝えて、日本に歌舞伎芸術家と一緒に演出したことを代表として今まで語られている。

梅蘭芳氏は、20代で京劇の「四大名旦(旦は女形の意)」のトップを極めた世界的に有名な京劇芸術の大家である。梅蘭芳氏はその生涯に三度訪日公演を行い、中国の無形の国宝である京劇を日本国民に紹介した。
1919年4月、梅蘭芳氏は日本初公演を行い、日本の観衆は梅氏を通して初めて触れる中国の京劇にすっか

り魅了されてしまう。

1924年、日本で関東大震災が発生し、梅蘭芳氏は日本の復興事業を支援するため、再度劇団を率いて日本に赴く。梅氏は歌舞伎俳優とともに舞台を踏んで15回の舞台をこなし、大阪でも5回の公演を行って、その興行収益のすべてを日本の被災地に寄付した。
:{P s;n6B2V ` 1956年、62歳になった梅蘭芳氏は、中日友好を促進するため、三度目の訪日公演に赴いた。このときの訪日公演には、梅蘭芳氏が開いた流派、「梅派」の継承者である息子の梅葆玖氏も同行し、53日間に32回の公演を行って日本でセンセーションを巻き起こした。
(t${+oo3T({[1]y } K*FN 三度の日本公演を行った梅蘭芳氏だが、その時代背景は毎回違っていた。違わなかったのは、梅蘭芳氏に対する日本側の歓迎ぶりである。東京、大阪、京都、神戸……、梅氏は行く先々で梅蘭芳ブームを巻き起こした。
1zt H0A,t^ ja.H2001年9月、梅蘭芳没後40周年のこの年、息子の梅葆玖氏が梅蘭芳京劇団を率いて日本を訪れ、亡き父の足跡を辿った。9月9日から15日にかけて梅蘭芳京劇団は東京国立劇場で7回の公演を行っている。


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京劇と歌舞伎は共演という形で交流を重ね、梅蘭芳氏も多くの歌舞伎俳優と厚い友情を結んでいた。梅蘭芳氏は、歌舞伎を日本で最高の伝統舞台芸術と認め2I

ていた。1955年と1979年に、日本の歌舞伎芸術家が訪中公演を行い、梅葆玖氏も歌舞伎の大看板である市川猿之助氏の1955年の北京公演を観ている。また、梅蘭芳生誕110周年の2004年5月にも、日本の歌舞伎が中国の舞台で演じられた。

日本の歌舞伎芸術家、坂東玉三郎氏は自らが演じる『楊貴妃』に、梅派の演技を取り入れている。「玉三郎さんは北京に来て、私に楊貴妃を習ったことがあります。有名俳優の気取りはまったくなく、とても謙虚な方でした。一方で型を習いながら、一方で独自の演技を創造されていました」と、梅葆玖氏は玉三郎氏の印象を述べ、「京劇も歌舞伎も形式こそ違いますが、同じく東洋の芝居です。ですから、その魂には相通じるものがあります」と語った。)芸術の表現形式と表現理念についての同じ点
G*a t%i f3cmR民間娯楽活動として、歌舞伎と京劇はその生まれから庶民文化と不可分な関係を持っている。そして、東方伝統文化の影響でまた長い間の中日両国の相互交流と影響で、京劇とかぶきは芸術特徴には総合性、程式性などいくつかの共通性が存在し

ている (多種芸術要素の綜合、音楽性、2X y5M;az(|7u Q程式性、G3Z g5A V女形) 。


3.歌舞伎と京劇は新時代中での発展
'@ z"O T.I1\ t&E M 歌舞伎と京劇は本国の伝統文化の構成部分としてそのすばらしさは数百年来うっとりさせている。感動させる伝奇的な話しを創造し、永遠に流れている風流の人物を造った。東方芸術の粋である。

インスタント食品文化に慣れた今日伝統的な芝居は民衆に中で次第にうとんじっている。特に若者の中にはほとんど市場がなくなった。如何に芝居を観衆に特に若者にもっと、近づけるということは考えるべき問題である。中国芝居家協会会長、京劇出演家尚長栄先生は芝居の発展は若者の支持から離せなくて、芝居は青年さえあれば、未来があると言われる。確かに如何に古い芝居芸術を若者に近づけるか、というのは歌舞伎と京劇が新時代の中で共同に直面している問題である。伝統的な芝居の改革上何名の名家は改革というのは迎合することではないであるが、孤高な姿を低くして、若者に近づける一方、芸術水準を提高し、観衆に芝居の独特な魅力を感受させようとしなければならないということがあると言われる。

科学技術はますます発展して、また今日は歌舞伎と京劇が歴史の伝統を受け続んだとともに、絶えずに改革、発展、新しいものを創造でき、もっと観賞性と芸術性があるようになることを信じている。両国の粋として歌舞伎と京劇はもっと素晴らしい将来があって、もっと鮮やかな花が咲けると思っておる。


おわりに

以上は日本の歌舞伎と中国の京劇の比較また、当然分からなければならない点を紹介した。皆さんのご存知のように日本という国は面積がとても小さい島国である。このような民族に対して、彼らは歴史理解を非常に重視している。よく中日芸術を理解するこそ、中日歴史を了解することができる。ですから、これらの心理を理解すれば、われわれはもっと自然的に中日芸術を理解するようになることができる。今回の論文を通して、歌舞伎と京劇の相違点を明確しないと本当に中日歴史を上手に理解できるので、日ごろ中日芸術を使う時、以上のことに注意させねばならないと思う。

上の文章を通じてみなさん歌舞伎や京劇の了解、少しでも役だったらと思うのが筆者の希望である


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