日本近现代文学史专论 期末报告

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「万葉集」の世界

――「万葉集」の自然観をめぐって

日本人の自然観と言っても、簡単にまとめてしまえるものではない。どの時代の自然観か、またどの層の抱く自然観なのかで異なるものだからである。また、前提となる自然をどう捉えるかということも外せない。

ここでは、日本人の自然観を垣間見る原点として日本最古の歌集「万葉集」にスポットを当ててみたいと思う。

万葉集の作者は乞食から庶民、豪族、貴族、天皇まで幅広い層に及ぶものであるから、それらを読み解けば、日本人の自然観の一つを示すことができるでだろう。歌集には山川草木、花鳥風月など具体的な多くの自然の事象が採り上げられているが、自然そのものに相当する総称名は見あたらない。自然という言葉は大和言葉にはないからである。自然という言葉が中国から伝えられた当初は、「じねん」と言われていた。

老子の言葉に「人地天道自然」とある。この自然は天然自然だけでなく「おのずから然り」の意味を持つ、もっと広い概念である。ルソーの「自然に帰れ」の言葉は有名であるが、これも天然自然だけでなく、あるがままの姿といった広い意味で用いられている。natureの原義naturaを“生まれる”、“生ずる”と解釈すれば、老子の“自ずからしかり”と同じ意味を持つ。ここでお話する自然観は、老子やルソーのように自然を広い意味で捉えるのでなく、天然自然をどう見ていたかに限定したものである。

万葉集に見られる日本人の自然観は、人も神も自然と一体と捉える同化思想だと言える。神に畏敬の念を持つのと同様に、天変地異などの自然の驚異も自らの力の及ばないものとして恐れたのである。欧米のキリスト教などに代表される自然観は、人も自然もすべて神の創造物というものである。表層の畏敬や恐れなどの感情は似ているが、その観点に本質的な違いがある。

「万葉集」の約3分の1が何らかの植物を詠んでいるといわれる。150種類をこえる植物が登場するが、最高歌数を誇る花は萩の141首、次いで梅119首、桜は意外に少なく42首とされている。そのなかからいくつかを四季の流れにそってあげてみます。

【春】

早春。山野の斜面などでは、細くまっすぐに伸びた花軸の先にうつむくようにかたかご(かたくり)が花開き、わらびがうずまき形のやわらかな芽を出します。

・物部の八十少女らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花〈巻19.4143.大伴家持〉【意味】

大勢の少女らが入り乱れて水を汲む寺の境内にある井戸。そのほとりにカタクリの花が咲いている。

・石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも〈巻8.1418.志貴皇子〉【意味】

岩の上を勢いよく流れる滝のほとりに、わらびがやわらかに芽吹いている。ああ、春になったのだなあ。

そして、春の花といえば桜。その桜が散り始める晩春には山吹が咲きます。

・見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも〈巻10.1872〉

・蝦鳴く神名火川に影見えて今か咲くらむ山吹の花〈巻8.1435.厚見王〉【意味】

かじかが鳴く神名火川に姿を映し、今ごろ咲いているだろうか、山吹の花は。

【夏】

初夏。山野や庭先、あるいは公園などでよく見かけるつつじが花開き、普段は目立たないつつじの木々の鮮やかさに思わず目をうばわれます。

・細領巾の鷺坂山の白躑躅われににほはね妹に示さむ〈巻9.1694.柿本人麻呂歌集〉

真夏には、浜木綿の真っ白い花が青空に映え、染料として有名なくれない(紅花)も咲きます。

・み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも〈巻4.496.柿本人麻呂〉

・紅の花にしあらば衣手に染めつけ持ちて行くべく思ほゆ〈巻11.2827)

【秋】

涼風が吹き、空が高くなると、野辺で萩や尾花(すすき)が咲き乱れ、田では稲穂が、山では紅葉が日に日に秋の色を濃くしてゆきます。

・見まく欲りわが待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり〈巻10.2124〉・秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は思ほゆるかも〈巻8.1564.日置長枝娘子〉

・秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何處辺の方にわが恋ひ止まむ〈巻2.88.磐姫皇后〉・あしひきの山の黄葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に〈巻8.1587.大伴書持〉

【冬】

庭先や野辺に花々が見られなくなり、茶褐色に変わった草木が目に付く冬。冷え込みが厳しくなると、霜柱が立ち、雪も降ります。しかし、そんな中でも植物は確実に生き続け、冬景色に彩りを与え、春の訪れをも感じさせてくれます。

・この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む〈巻19.4226.大伴家持〉

・河のへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は〈巻1.56.春日蔵首老〉

・わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも〈巻5.822.大伴旅人〉こういう歌は、皆素直に四季の風物に順応して作ったもので、普通の意味で分類する叙景歌に属するものも幾らもあるけれども、こう分類して結論の誤りを来すほど、純で且つ深みのあるものが多い。それほど万葉の歌人は感覚が鋭敏で且つ純朴である。春相聞とか夏相聞という四季相聞の歌があって、四季の風物と恋愛心を融合せしめた独特の恋歌がある。飛鳥・奈良時代、万葉集の歌が詠まれた時代には、日本はどのような自然を有し、人々は自然をどんなふうに感じていたのだろうか。万葉集を読んでいるとその答えが少しずつわかってくるような気がする。そして、日常生活の中で草花や風の変化に季節の移り変わりを見つけると、万葉の時代から関心を持たれ、親しまれてきた四季の美しさを楽しみ、大切にしたいと思う。