日本古代文学の発生
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第二章日本中古文学(平安時代)一.概観(1)中古文学の範囲中古文学は平安時代の文学とも呼ばれ、794年の平安遷都から1192年の鎌倉幕府成立までの約400年間の文学をいう。
(2)歴史的背景●天皇中心の律令政治がくずれ、摂関政治が実現●藤原氏の栄華は頂点に達する●外戚政策で宮廷女流文学を生み出す(3)文化的背景●中国の唐文化の吸収消化●かな文字の普及による国風文化の誕生●漢詩文の時代からかな文学の時代へ(4)中古文学の発達①第一期(9世紀ごろまでの約60年間)中国唐文化の影響の下に勅撰三集(『凌雲新集』『文華秀麗集』『経国集』)が撰出された。
漢詩文の全盛期である。
②第二期(10世紀中ごろまでの約100年間)中国唐文化模倣を反省し、国風文化の傾向が強くあらわれる。
●和歌の開花勅撰集『古今集』・歌合の流行●かな文学の成立作り物語『竹取物語』『伊勢物語』日記『土佐日記』●歌謡の神楽歌・催馬楽などが儀式や遊宴でうたわれた。
③第三期(11世紀中ごろまでの約100年間)宮廷女流文学の最盛期である。
藤原氏の摂関政治の隆盛を背景に、宮廷サロンの花が開いたのである。
●物語文学の大成『源氏物語』●随筆文学の誕生『枕草子』●女流日記文学の隆盛『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』④第四期(11世紀後半からの約140年間)貴族が没落の道をたどる中で、新しい文学形態が見出されていく。
●貴族政治の最盛期を回想する歴史物語『大鏡』『栄花物語』●新興の武士や庶民も登場する説話物語『今昔物語』●庶民の歌謡や今様を集めた作品『梁塵秘抄』⑤中古文学の特質美の中心的理念は「もののあはれ」である。
それは機知のおもしろさの「をかし」とともに、この時代の文学の思潮を代表し、また日本文学をつらぬくものでもある。
また、貴族に文学を占有された時代でもあり、宮廷女流文学の隆盛時代でもあった。
さらに、仏教思想が普及し、しだいに無常観・宿命感が文学にも深く浸透し始めた。
1「漢文学研究」(水曜日・三限)演習発表材料平成廿七年六月四日学部特別聴講生 T二〇一肆一伍李り鎮ちん君くん「論語」子罕篇十八【本文】「原文」子曰、「吾未見好德如好色者也。
」「書き出し文」子曰はく、「吾未だ徳を好むこと、色を好む如くたる者を見ざるなり。
」「現代日本語訳」孔子が言う。
「いままで徳が色の様に好きな人を見たことはない。
」「語釈」成語招摇過市居衛月餘、霊公與夫人同車、宦者雍渠参乘、出、使孔子為次乘、招摇市過之。
「史記・孔子世家」事由とは、孔子と弟子らが衛にいった。
衛霊公が孔子の名を慕い、異姓兄弟を結ぼうとした。
たびたび衛霊公の夫人、国政を掌にした南子が孔子を惑わすこともあった。
霊公が孔子を連れ、みやこを回ろうとして、南子と有力者の宦官の雍渠と同乗し、孔子を後ろにつかせた。
仁政を施すことに問わないとした霊公に失望し、孔子は弟子を率いて衛国を出た。
【注】「本文」① 疾時人薄於德而厚於色。
故發此言。
「書き出し文」2時に人色に厚くして徳に薄きを疾む。
故に此の言を発す。
「現代日本語訳」当時の人が徳を軽んじて美色・権術など享楽を重んじることに心を痛めたから、こういうふうにいったのだ。
【疏】「本文」正義曰、「此章、孔子疾時人薄於徳、而厚於色也。
」「書き出し文」正義曰はく、この章、孔子は時に人は色に厚くして徳に薄きを疾むなり。
「現代日本語訳」正義というのは、この文は、当時の人が徳を軽んじて美色など享楽を重んじることに心を痛めることだ。
「論語」述而篇廿二【本文】「原文」孔子去曹適宋、與弟子習禮大樹下。
宋司馬桓魋欲殺孔子。
拔其樹。
孔子去。
弟子曰、「可以速矣。
」孔子曰、「天生德於予、桓魋其如予何。
」学習②「論語」子曰、「天生德於予、桓魋其如予何。
」「書き出し文」孔子曹を去りて宋に適きて、弟子と大树の下に禮をならふ。
宋の司馬の桓魋は孔子を殺さんとす。
その樹を抜く。
孔子去る。
弟子曰はく、以て速やかにすべし。
子曰はく、「天徳を予に生ぜり、桓魋其れ予を如何せん」3「現代日本語訳」孔子は曹の国を去って宋の国に来た。
日本文学选读第一章古代前期の文学(奈良時代)第一節古代前期の文学概観一.文学背景1.古代前期おおかた五世紀ごろから八世紀まで、すなわち文学の発生から794年の平安遷都までの間を指す。
日本史で古代前期とは大和、飛鳥、奈良時代とも呼ぶ。
その中でも、奈良時代を中心にしている。
この時期を上代とも言う。
2.国家の成立紀元前3世紀に、集団による農耕生活が始まり、各地でだんだん小国家が出てきた。
4世紀に、大和朝廷が統一国家成立を成し遂げた。
3.律令制の確立7世紀に、聖徳太子の改革によって、「憲法17条」が決められた。
和を尊び、仏教を信じ、天皇に服従すべきことなどを強調して、すべてが国家の統治に有利である。
しかも、これまでの大王の称にかわって、天皇の称号が用いられるようになった。
4.遣隋使と遣唐使7世紀から遣隋使と遣唐使が大陸に頻繁に派遣されて、中日両国の交流がとても盛んである。
聖徳太子の時、小野妹子が何度も隋に派遣された。
奈良朝に入ってから、朝廷がさらに頻繁に遣唐使や留学生を中国に派遣して、日本はどんどん中国大陸から中国文化を吸収した。
また、日本の留学生も帰国するに際して、唐から大量の書籍を持って帰る。
だから、奈良文化の特徴と言えば、貴族的文化、「唐風」であると言えよう。
二、口承文学の時代から記載文学時代へずっと昔、日本の祖先は祭りを通して、共同体を結んでいった.その当時、文字がなくて、祭りの場で、神々や祖先に対して語られ歌われる神聖な言葉は、口々相伝得るより仕方がなく、長い間、子々孫々に言い継ぎ、歌い継いで、伝承されていった。
このように誕生した神話、伝説、歌謡、祝詞などを口承文学と言う。
大和朝廷は国家を統一すると、朝鮮、中国との交流が盛んになった。
4世紀ごろに、大陸から漢字が伝わってきた。
そして、だんだん実用化され、6世紀ごろに、漢字で表記できるようになり、文学作品も漢字によって、記載されるようになった。
これは記載文学の始まりである。
浅谈中国文学对日本文学的影响田国庆·070380111浅谈中国文学对日本文学的影响具有深厚积淀的中国文化博大精深,影响了日、朝、越等邻邦国家。
其中日本所受影响最深。
自奈良时代起,日本派遣大量遣唐使来华,文化的交流日益加深。
至宽平二年,日本朝廷废止遣唐使,采取对外封闭的策略,日本的民族文学才得以发展并逐渐占据主导地位。
日本是一个善于吸收外来文化,并将之融入本民族文化加以创造性利用的民族。
中国作为历史悠久、文化发达的日本邻国,在日本古代文明的兴起之路上,扮演了一个举足轻重的角色。
纵观日本文学的发展,正是受到中国文学的影响并不断走向自觉、形成自己特色的过程。
本文主要从中国文学影响,以及日本本土民族文学发展的两个角度,来阐释日本文学的发展,并通过不同时期的具体体现来说明这个问题。
一、中国文学影响日本文学的精神内涵日本文化受中国影响很深。
尤其是唐朝,作为世界上的霸主帝国,中国向世界输出其先进的文化理念和制度。
日本也深受中国文化的影响。
作为文化的重要组成部分和载体的文学也是如此。
日本文学深受中国文学的影响。
中国文学影响了日本文学闲适、伤感的诗歌意境以及独特的审美取向:物哀。
1、闲适感伤的诗歌意境影响日本文学创作以平安时代的白居易诗歌广泛流传为例。
在平安时代,白居易诗歌体现出的“闲适”、“感伤”的审美情趣和佛道思想,符合了平安时代的文化背景,引起了文人的认同。
士人们纷纷效仿白居易的寄情诗酒、放纵自娱,以求得心理的寄托和慰籍。
平安时代的《源氏物语》、《枕草子》、《伊势物语》、《和泉式部日记》等作品中,都清晰地反映了当时公卿贵族的这种生活方式和精神状态。
这一时期人们所创作的作品,也大都和白居易晚年的诗歌有着相同的表现主题和思想内涵。
这乃是受到了中国文化特别是白居易诗歌创作的影响。
2、中国禅宗影响下形成的独特审美:物哀日本武士社会重建后,中国禅学大量涌入日本。
中国佛教禅宗所揭示的人生无常之虚幻,以及万物流转的轮回之苦的独特审美,直接催化形成了日本文学的“物哀美”。
奈良时期(8世纪)最早的文学典籍是《古事记》、《日本书纪》及《风土记》。
前两部著作追记了日本国史,后一部则记载了日本各地自然状况、风土人情。
两者均收录了丰富的神话传说和生动的古歌谣。
稍后出现的汉诗集《怀风藻》标志着文人诗歌创作的肇始,而和歌集《万叶集》的编撰成功则代表着日本诗歌发展的第一个高峰。
平安时期(8~12世纪)受中国唐代文化影响,大量汉诗文集相继问世,汉文学热持续一个世纪之久。
敕撰诗集《古今和歌集》恢复了日本民族诗歌的地位。
与此同时,散文创作硕果累累:《竹取物语》、《伊势物语》开辟了传奇物语和歌物语两条道路,《宇津保物语》开长篇物语的先河,这就为物语文学的集大成之作《源氏物语》的诞生奠定了基础。
长篇写实小说《源氏物语》出自女作家紫式部之手。
作者以沉郁、凄婉的笔调抒写了源氏苦乐掺半的一生及宫廷妇女不幸的命运,表达了作者人生无常的佛学观和以哀为极至的美学观。
除紫式部外,许多女作家的作品都于此时脱颖而出,如《蜻蛉日记》、《和泉式部日记》、《更级日记》等。
这些日记成为日本后世文学中私小说的滥觞。
女性散文中较为引人注目的是清少纳言的随笔《枕草子》,作者观察之敏锐细腻,用笔之纤柔清丽,一直为后人所称道。
此期散文创作的最后收获是佛教说话集《今昔物语》和历史物语《大镜物语》。
这些物语一改王朝物语的纤弱文风,拓展了物语文学表现的范围。
镰仓室町时期(12~16世纪)随着武士阶级登上历史舞台,贵族和歌文学走向衰落。
1205年完成的《新古今和歌集》虽与《万叶集》、《古今和歌集》形成三足鼎立之势,但毕竟是强弩之末,取而代之的是连歌和俳谐的兴起。
二条良基、山崎宗鉴等人确立了连歌、俳谐的文学地位。
散文方面也出现了描写新兴武士生活的军记物语和抒发隐遁者之情的僧人随笔。
军记物语中臻于成熟的经典之作是记述平、源两大武士集团兴衰始末的《平家物语》。
小说刻画了平清盛等骁勇善战的武士英雄形象,再现了他们自信向上的精神风貌,客观上反映了贵族社会向武士社会转变的时代本质。
从日本古典文学看日语文字的形成及其发展作者:王春苗来源:《文教资料》2009年第15期摘要:日语的文字包括汉字、平假名和片假名。
日语中的汉字是引进中国的文字并在此基础上创造出来的,而平假名和片假名的产生也与汉字密不可分。
一种文字的产生往往会经历一个漫长的历史过程,文学只有依赖文字才能得以流传,同时文学也忠实地记录和反映了文字的产生和发展过程。
本文从日本的古典文学作品出发,对日语文字的形成及发展进行了探讨。
关键词:日语文字汉字形成发展众所周知,日语文字中包含着大量的汉字,因此不懂日语或者初学日语的中国人,也能够根据汉字“望文生义”,猜出日语篇章的大概意思。
当然这种“望文生义”是要承担相当大的风险的,特别是文中汉字较少的情况下。
但由此不难看出,日语和汉语有着千丝万缕的联系。
日语中的汉字是对中国汉字的直接引用或变更,平假名由中国汉字的草书变换而来,片假名则根据中国汉字的偏旁部首创造出来。
这对于学习日语或对日语有一定了解的人而言早已耳熟能详。
但是,一种文字的产生绝不仅仅是一两句话那么简单,都是经历了漫长的历史演变,在历史长河中经过大浪淘沙般的千锤百炼凝结而成。
文学作品作为人类经验和智慧的文字载体,它只有依赖文字才能得以流传,同时又忠实地记录和反映了文字的形成及发展过程。
本文拟从日本古典文学作品出发,对日语文字的形成及其发展进行一番探讨和研究。
一、汉字的传入与万叶假名汉字是在公元4—5世纪从中国经由朝鲜半岛传入日本的。
在汉字传入日本之前,古代的日本仅有口头语言,并无用于记录的文字。
汉字的传入使日本由无文字社会进入到了文字社会,由口头传承文化进入到了记录文化的时代。
由于汉字的传入,日本大量的古代文化遗产如神话传说、上古歌谣等都得以记录并保存下来。
不仅如此,儒教、佛教的文化和思想也随着汉字传入到日本,从而促进了日本文化的发展和繁荣。
那么汉字传入日本之后是如何被接受和使用,并转化为日本本国的记录文字的呢?下面将从日本的上代文学的表记中一探究竟。
日本古典文学概説一、文学の発生二、文学のジャンル三、口承文学から記載文学へ1、呪術信仰2、言霊信仰①祝詞祭式の場で、人が神に対して、その働きを願って唱えた詞章である。
現存する代表作:『延喜式』の27編・『台記』の「中臣寿詞」一編。
②宣命天皇は臣下に下す和文体の詔である。
現存する代表作:『続日本紀』の62編と他文献の三編。
③神話・伝説・説話神話:現実の世界や人間の起源、或は存在の根拠などを神々の働きに基づくものとして語る。
伝説:わりに歴史性が強く、ある特定の時代や地域に結び付いて、事柄の由緒や地名の起源などが語れる。
説話:神聖性や歴史性をそれほど持たず、内容の面白さと日常生活に役立つ教訓性を中心に成立した短い話。
④古代歌謡・「記紀歌謡」四、漢文学と仮名文学1、漢文学――漢語(外国語)で創作する文学。
2、仮名文学――日本自身の言語で創作する文学。
*漢文学と仮名文学とがお互いに影響しながら、ともに発展してくるのは、日本古典文学の特徴の一つ。
五、日本古典文学の時代区分1、上代文学(口承文芸の発生~平安京遷都)時代背景:①口承文芸の時代②記載文芸の発生漢字の伝来、聖徳太子によって編集される「天皇記」、「国記」などができ、歌謡の面では集団の感情から個人の内面的感情へ発展し、韻律として五七調に整えられた。
代表作品:『古事記』・『日本書紀』、『風土記』、和歌集――『万葉集』、漢詩集――『懐風藻』2、中古文学(平安京遷都~源頼朝が鎌倉で幕府を開く)時代背景:①貴族社会②摂政関白政治(外戚の宮廷文化)③女流文学の興隆代表作品:『凌雲集』・『文華秀麗集』・『経国集』、『菅家文草』、『古今集』と「八大集」、『竹取物語』、『伊勢物語』、『源氏物語』、『蜻蛉日記』、『土佐日記』、『枕草子』、『今昔物語集』など3、中世文学(鎌倉幕府成立~徳川家康が江戸で幕府を開く)時代背景:戦乱、武家社会、貴族文学や文化へ憧憬、文学の担い手が単一ではなくなった(武士・町衆)。
日本古代文学的发展与演变日本古代文学是日本文学的重要组成部分,其历史可以追溯到公元7世纪左右。
从那时起,不同的文学体裁开始在日本形成和发展,这些文学体裁包括和歌、连歌、狂言、能、小说等等,它们都为日本文学的创新和发展提供了巨大贡献。
和歌是日本文学的最早形式之一,它是源于中国的诗歌形式。
和歌最初是文人间的文人游戏,过去,只有贵族阶级才能写和读和歌,它们多半描述自然风景、四季变化或内心感受等。
到了平安时期(794-1185),和歌的内容和形式都有了很大的变化和发展,它从诗人间的私产变成了国民诗歌,也从诗的形式变成了像歌曲一样旋律和节奏的东西。
同时,和歌的主题也更加多元化和广泛化,它不仅描绘自然景观,还描绘爱情、战争、宗教等等。
和歌由于存在严格的格式和要求,一般可以由诗艺师、贵族等人创作。
即使是后世的人,在欣赏和歌时,也会感到它们充满形式之美。
这种形式之美得以在许多今天所广受欢迎的文学体裁中看到,例如短歌、俳句等等。
和歌过程中,一些固定的格式要求(指万葉集以后的形式排列方式)得以确立,如:五七五。
这一点体现了和歌的稳定和发展,直到今天这种格式在俳句、现代短歌等诗体均有应用,并成为日本文学的一个重要的特色。
和歌的发展还促进了另一种古代文学体裁的发展,那就是连歌。
连歌诗是一种由许多人按照一定格式和顺序首尾相接而写成的长诗,起源于宫廷中的和歌。
和歌诗人之间经常会在宴会上结成三至五人的小组合作创作长诗,这种文学创作被后人称之为连歌,它成为了日本文学中独特的一部分。
日本文学中的另一种独特的形式是狂言,它是一种舞台剧形式,具有既有趣又深刻的社会意义。
狂言起源于13世纪,它将讽刺和幽默的元素结合在一起,常常使用口语化的对话和一些夸张或荒唐的情节。
尽管这种文学体裁不常使用和古代文学相比,它制作非常繁琐,但狂言作为一种反映当时社会的形式获得了很大的成功,它模仿了当时的社会文化和和说唱节目,通过表达人们的意志和社交途径交流信息。
日本古代文学の発生
●日本古代文学とは?
日本古代とは紀元前千年から鎌倉時代の前までの間と考えられている。
また日本文学史の時代区分は古代前期と古代後期に分かれられている。
文学史の古代前期とは大和時代と奈良時代の文学を含む平安京遷都以前の文学を指し、古代後期とは政治史における平安時代に相当すると考えるのが一般的である。
その間、日本の古代文学は神話、伝説、説話の誕生から、詩歌とか物語など色々な文学形式の隆盛まで、すごく発展した。
前期の優秀な作品は歴史書の<古事記>、<日本書紀>;地誌の<風土記>;和歌集の<万葉集>;漢詩文集の<懐風藻>;仏教説話集<日本霊異記>などがある。
後期はもっと多くな素晴らしい作品が出た。
その中に漢詩文の<凌雲集>、<経国集>、<文華秀麗集>;和歌の<古今和歌集>;物語の<竹取物語>、<伊勢物語>、またとても有名な<源氏物語>;随筆の<枕草子>;日記の<蜻蛉日記>、<更級日記>などがある。
文学領域では多くの偉い作家も出た。
●日本古代文学の発生とは?
私の考えから、日本古代文学の発生とは日本の文学の最初の誕生から、具体的な形式があり、文字で記した文学作品になる過程だと思う。
以下の三つの部分に分けられる。
一、原始社会の祭り
文学の発生は人間の信仰との関係が深いだと思う。
原始社会の人々がまだ自覚的に文学を想像することを知らなかった頃に、文学的な性格を持っていたのは、呪術的祭式における語りごとであった。
語り事は祭式の変遷に伴って内容や性格を変え、村落の古老や氏族の語部によって口頭で伝承されていって、それは後世、神話、伝説、説話のような形に分類されまとめられて現代に伝わるものとなった。
縄文時代人々はまだ狩猟、漁撈や植物採集によって生活し、非常に自然に依存した。
そして、人間自分は自然災害とか、病気などから自分を守られないから、神の力を信じるしかなかった。
人々は、こっかと、貝殻、翡翠などで作った腕輪や首飾り、耳飾りなどで身を飾り、成人を示す抜歯も行い、門歯に刻みを入れ、また女性や動物をかたどった土偶を作ったりした。
人々は自然に対して願いがある同時に、自分の力は小さいので、どうしたら自然は自分の願いを叶えてくれるのか。
その問題は当時の人々の思想の中で溢れていたことだ。
これらの風習は、魔除け、また病気を治すための呪いといわれている。
弥生時代になると、農耕による収穫量は、自然採集よりもはるかに大きく、貯蔵もできるので、生活は安定し、集落も大規模になった。
他方では水稲農耕は、多くの共同作業が必要であり、また自然条件に大きく左右されるので、司祭的な指導者が必要であった。
5世紀の中から、生産用具の改良と普及とともに、乾田や畑の発展が進み、農耕が生活の中心となった。
農村の行事としても国の行事としても、重要なものとされた。
大和政権
の大王の権威も、政治上の権力と最高の司祭者としての宗教的地域に基づいていた。
神意を伺うための太占や、審議、正邪を判断する探湯が行われ、また自然神などを祀るやしろも作られるようになった。
6世紀の中頃には、神話、伝承などが形を整えたと言われる。
日本文学の原初は、「祭り」のばの詞章「呪詞」から、歌謡、神話へ自然界に対する畏怖と脅威ーー超人間的な力(神)を祭ることによって、共同体の安全、生産の豊饒を願っている間に起こってきたものである。
祭りの場で語られる神聖な詞章(呪言や呪詞)は、韻律や繰り返しを持つ律文として発展し、その祭りの場で、語られたものと音楽や舞踊と結びついて極めて渾然としたもの(うたう、おどる、かたる)は、文学の原型となった。
しかし、共同体の統合に伴って、小国からやがて統一国家が形成され、「祭り」が更に統合され、その神聖な詞章も言葉表現として自立、洗練化されていった。
それが最初様々な歌謡、神話の形で定着され、文学の誕生と思われる。
二、日本国内の環境
生産力の進歩に従って、余剰生産物の蓄積のもとに、地域集団を統率する支配者が各地に現れ、「クニ」も現れた。
2世紀の後半に倭では大きな戦乱が起こり、なかなかおきさまらなかったため、3世紀になって諸国が共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てると、ようやく乱は治まった。
そして統一的な大和政権がたてられて、人々の生活は穏やかになった。
それに、中央国家の所在地である大和地方は東、南、西三面の山に囲まれていた盆地で、中には多くの川の支流を合流する大和川などが流れ、南に重要な港にも通じ、瀬戸内海へ出るには便利である。
北へ行くのは日本海方面で、伊勢を抜け、広い東国へ行くのも便利で適した位置にあった。
また、その気候は穏やかで、自然災害は尐なくて、大和政権の基盤を支えた。
その穏やかな環境は文化の発展する有利な条件を提供した。
三、国際の環境
3世紀の末、中国大陸の三国は晋によって統一された。
しかし晋はまもなく北方の異民族の圧迫を受けて長江の南に移り、中国はやがて南北時代に入った。
そのため、朝鮮半島の漢民族の勢力衰え、北部では高句麗が楽浪郡を滅ぼして、領土を広げ、南部には百済、新羅の国ができた。
高句麗の好太王碑によると、大和政権は朝鮮半島の優れた文化や鉄資源を求めて、百済の求めに応じて、軍を送って、新羅と戦い、朝鮮半島の南端の加羅と呼ばれる小さい国に勢力を伸びた。
更には、北方の高句麗とも戦った。
しかし、5世紀になると、高句麗、新羅の勢いが強くなったから、大和政権は中国南朝の権威を借りてその地域を強化しようとして、倭の五王が次々と南朝に死者を送った。
こうして、朝鮮半島への出兵や中国との交渉が盛んに連れて、朝鮮半島や中国大陸から多くの渡来人が来往し、日本文化の発展に大きく貢献した。
特に四世紀の初め頃、高句麗に滅ぼされた楽浪郡の遺民が多数日本に渡った。
彼らは中国の機械技術などを伝え、その子孫は文筆や武芸、産業に貢献した。
5世紀頃には、漢字が日本でも使用されたが、漢字を用いて外交文書や記録などの作成に当たったのも渡来人であった。
6世紀、儒教は日本に伝入して、疫学、暦学などの学問も伝わり、ついで仏教が伝えられた。
外国からの先進な文化の伝入、特に文字の伝入は日本文学の一定の形になるには重要な条件なのだ。
発生
国外と国内の両方の有利な環境の中で、日本人は漢字による日本語の文字化ができた。
その前口承した神話とか、伝説などは漢字で整えられて記された。
漢字表記での困難さを克服するために、古代の日本人は万葉がなを工夫して、またカタカナとひらがらを生み出していった。
その口承から記載への過程の中で、歌謡から洗練された和歌も誕生した。
8世紀初めに漢字による記録の発展によって、中央集権化を押し進める国家の事業として、神話、伝説、歌謡などの古代国家による集大成と言える歴史書の<古事記>、<日本書紀>、<風土記>が編集されるようになった。
こうして、日本古代文学は正しい軌道に乗せてきた。