太宰治「ヴィヨンの妻」论 - 东洋大学 トップページ
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家庭の幸福太宰治「官僚が悪い」という言葉は、所謂(いわゆる)「清く明るくほがらかに」などという言葉と同様に、いかにも間が抜けて陳腐で、馬鹿らしくさえ感ぜられて、私には「官僚」という種属の正体はどんなものなのか、また、それが、どんな具合いに悪いのか、どうも、色あざやかには実感せられなかったのである。
問題外、関心無し、そんな気持に近かった。
つまり、役人は威張る、それだけの事なのではなかろうかとさえ思っていた。
しかし、民衆だって、ずるくて汚くて慾が深くて、裏切って、ろくでも無いのが多いのだから、謂(い)わばアイコとでも申すべきで、むしろ役人のほうは、その大半、幼にして学を好み、長ずるに及んで立志出郷、もっぱら六法全書の糞(くそ)暗記に努め、質素倹約、友人にケチと言われても馬耳東風、祖先を敬するの念厚く、亡父の命日にはお墓の掃除などして、大学の卒業証書は金色の額縁にいれて母の寝間の壁に飾り、まことにこれ父母に孝、兄弟には友ならず、朋友(ほうゆう)は相信ぜず、お役所に勤めても、ただもうわが身分の大過無きを期し、ひとを憎まず愛さず、にこりともせず、ひたすら公平、紳士の亀鑑、立派、立派、すこしは威張ったって、かまわない、と私は世の所謂お役人に同情さえしていたのである。
しかるに先日、私は少しからだ具合いを悪くして、一日一ぱい寝床の中でうつらうつらしながら、ラジオというものを聞いてみた。
私はこれまで十何年間、ラジオの機械を自分の家に取りつけた事が無い。
ただ野暮ったくもったい振り、何の芸も機智も勇気も無く、図々しく厚かましく、へんにガアガア騒々しいものとばかり独断していたのである。
空襲の時にも私は、窓をひらいて首をつき出し、隣家のラジオの、一機はどうして一機はどうしたとかいう報告を聞きとって、まず大丈夫、と家の者に言って、用をすましていたものである。
いや、実は、あのラジオの機械というものは、少し高い。
くれるというひとがあったら、それは、もらってもいいけれど、酒と煙草とおいしい副食物以外には、極端に倹約吝嗇(りんしょく)の私にとって、受信機購入など、とんでも無い大乱費だったのである。
太宰治经典作品集语录太宰治被誉为日本现代文学的巨匠,他的作品中充满着探索人类内心世界、描绘社会黑暗面等深刻的思想。
他的文字充满诗意,深刻而又抒情,语境细腻,每一个作品都是一篇短篇小说的完美体现。
以下是我选择的七个从太宰治的作品中的经典语录,来探究他的作品对读者自身的引发和决定机会的能力:1.《维庸之妻》"我明白,一个人只要运用约束的力量,就能活得忍受,而作为自由的个体却无法抵受人生的苦难。
" 这句话涵盖了太宰治创作主题的一个核心,即自由是否真正自由,没有约束和条条框框是否会让生命更加灿烂。
太宰治创作中经常将自由、欲望和无可救药的孤独等主题交织在一起。
2.《十三岁的母亲》"想变得更好的人,不是不遇到麻烦,而是遇到不沉沦。
" 在这段经典语录中,太宰治向我们传达了一种积极乐观的精神:即便命运不济,人们也应该勇敢地迎接生活的挑战,勇敢前行,不要让困境打垮自己的意识和心智。
3.《津和野》"金色和色彩缓和的夕阳中,我慢慢地感受到了细微的感动。
这样微妙的感触,难以表达。
也许这就是幸福的感触吧。
" 在这句话中,太宰治展现出了他深厚的美学情感和表达能力,借由一个美妙的场景,把微妙的内心感到完美表达出来,达到了写作的目的。
4.《人间失格》"那些回不去的曾经,那些追不回的过去,与之对峙时,所给出的更何尝不是一道道无关利害的妥协线。
" 在这句话中,太宰治呈现了一个深刻的思考,探究了回忆和现实的紧张关系,同时赋予了读者深刻的思考,回过头看自己的链接过去和未来的选择。
5.《走上告别之路的她们》"从这个世界上消逝,只是用了这么短的时间吗?!多么痛苦的事实啊!" 在这段话中,太宰治表达了他对生命的珍惜和短暂的感叹。
通过这些语言,读者能够体验到他在文学中精湛的表达能力。
6. 《海边的卡夫卡》"即使仓皇逃亡,却也换不了别人留下的印记。
思ひ出太宰治一章黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。
叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。
その時の、ほのぐらい街路の靜けさを私は忘れずにゐる。
叔母は、てんしさまがお隱れになつたのだ、と私に教へて、生(い)き神樣(がみさま)、と言ひ添へた。
いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな氣がする。
それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。
叔母は、そんなことを言ふものでない、お隱れになつたと言へ、と私をたしなめた。
どこへお隱れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。
私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは數へどしの四つをすこし越えてゐた。
多分おなじ頃の事であつたらうと思ふが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た瀧を忘れない。
瀧は村にちかい山の中にあつた。
青々と苔の生えた崖から幅の廣い瀧がしろく落ちてゐた。
知らない男の人の肩車に乘つて私はそれを眺めた。
何かの社(やしろ)が傍にあつて、その男の人が私にそこのさまざまな繪馬を見せたが私は段々とさびしくなつて、がちや、がちや、と泣いた。
私は叔母をがちやと呼んでゐたのである。
叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騷いでゐたが、私の泣き聲を聞いて、いそいで立ち上つた。
そのとき毛氈が足にひつかかつたらしく、お辭儀でもするやうにからだを深くよろめかした。
他のひとたちはそれを見て、醉つた、醉つたと叔母をはやしたてた。
私は遙かはなれてこれを見おろし、口惜(くや)しくて口惜(くや)しくて、いよいよ大聲を立てて泣き喚いた。
またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。
叔母の胸は玄關のくぐり戸いつぱいにふさがつてゐた。
その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたつてゐた。
叔母は、お前がいやになつた、とあらあらしく呟くのである。
私は叔母のその乳房に頬をよせて、さうしないでけんせ、と願ひつつしきりに涙を流した。
ヴィヨンの妻太宰治一あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました。
夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻(か)きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、「おかえりなさいまし。
ごはんは、おすみですか?お戸棚に、おむすびがございますけど」と申しますと、「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。
熱は、まだありますか?」とたずねます。
これも珍らしい事でございました。
坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許(あしもと)さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩(や)せているので、凄(さび)しくなって、おおぜいの人の前で泣いてしまった事さえございました。
そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ちついている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。
お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙って撫(な)でてやっているより他は無いのでございます。
けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍らしくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。
愛と美について太宰治兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。
長男は二十九歳。
法学士である。
ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇(かば)う鬼の面(めん)であって、まことは弱く、とても優しい。
弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。
それにきまっていた。
映画館を出てからは、急に尊大に、むっと不気嫌になって、みちみち一言も口をきかない。
生れて、いまだ一度も嘘言(うそ)というものをついたことがないと、躊躇(ちゅうちょ)せず公言している。
それは、どうかと思われるけれど、しかし、剛直、潔白の一面は、たしかに具有していた。
学校の成績は、あまりよくなかった。
卒業後は、どこへも勤めず、固く一家を守っている。
イプセンを研究している。
このごろ人形の家をまた読み返し、重大な発見をして、頗(すこぶ)る興奮した。
ノラが、あのとき恋をしていた。
お医者のランクに恋をしていたのだ。
それを発見した。
弟妹たちを呼び集めて、そのところを指摘し、大声叱咤(しった)、説明に努力したが、徒労であった。
弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。
いったいに、弟妹たちは、この兄を甘く見ている。
なめている風(ふう)がある。
長女は、二十六歳。
いまだ嫁がず、鉄道省に通勤している。
フランス語が、かなりよくできた。
脊丈(せたけ)が、五尺三寸あった。
すごく、痩(や)せている。
弟妹たちに、馬、と呼ばれることがある。
髪を短く切って、ロイド眼鏡をかけている。
心が派手で、誰とでもすぐ友達になり、一生懸命に奉仕して、捨てられる。
それが、趣味である。
憂愁、寂寥(せきりょう)の感を、ひそかに楽しむのである。
けれどもいちど、同じ課に勤務している若い官吏に夢中になり、そうして、やはり捨てられたときには、そのときだけは、流石(さすが)に、しんからげっそりして、間(ま)の悪さもあり、肺が悪くなったと嘘をついて、一週間も寝て、それから頸(くび)に繃帯(ほうたい)を巻いて、やたらに咳(せき)をしながら、お医者に見せに行ったら、レントゲンで精細にしらべられ、稀(まれ)に見る頑強の肺臓であるといって医者にほめられた。
太宰治的爱情观
太宰治是一位才华横溢的日本作家,他的作品深受广大读者喜爱。
然而,他的爱情观却充满了矛盾和复杂。
首先,太宰治认为爱情是一种无力的、虚无缥缈的情感。
在小说《斜阳》中,他描绘了一对母女因无法抵挡生活的压迫而走向悲剧的结局。
他认为爱情在现实面前显得苍白无力,无法改变命运。
其次,太宰治认为爱情是一种背叛和堕落。
在小说《维庸之妻》中,他描写了一位已婚妇女与别的男人私奔的故事,展示了爱情的背叛和堕落。
他认为爱情会让人陷入道德沦丧的境地,使人失去自我。
然而,太宰治又认为爱情是一种纯真而美好的情感。
在小说《人间失格》中,他描绘了一段纯洁的爱情,让人感受到爱情的纯真与美好。
他认为爱情能让人体验到生命的意义和价值,使人生充满意义。
太宰治的这种矛盾和复杂的爱情观,与他自身的经历和心境密切相关。
他一生经历过多次感情创伤,经历了家庭的破碎和社会的动荡。
这些经历使他深刻认识到人生的无常和现实的残酷,也使他对爱情产生了复杂而矛盾的情感。
综上所述,太宰治的爱情观充满了矛盾和复杂。
他认为爱情既无力又背叛,但同时也纯真美好。
这种矛盾和复杂的爱情观反映了太宰治自身的经历和心境,也反映了人生的无常和现实的残酷。
论太宰治文学表现形式的仿拟与引用作者:桂欣雨来源:《现代语文(学术综合)》2017年第05期摘要:太宰治为日本著名“无赖派”小说家,他在短暂的创作生涯中创作出了很多优秀的小说,其文学作品多采用“日记体”“女性独白体”等文体,表现形式也非常多变。
同时还以其他小说为蓝本创作出许多翻案小说。
文章通过对太宰治作品《女人的决斗》对源文本的仿拟与引用进行对比分析,以太宰治文学研究仿拟论和引用论为基础,阐述了太宰治文学的特质的理解。
关键词:太宰治仿拟引用《女人的决斗》一、太宰治文学太宰治(1909-1948)是第二次世界大战后日本“无赖派”——又称“新戏作派”的代表作家,他的一生虽然短暂但是留下了许多作品,对后世文学界产生了巨大影响。
他的作品包罗万象、风格多变,涉及了历史故事、民间传说、他人日记、书信、中国古典文学、莎士比亚以及圣经。
无赖派是战后日本最早出现的有代表性的文学思潮,它的出现与当时时代背景息息相关,日本战败后百废待兴,在社会秩序混乱和价值依稀崩溃的影响下涌现出这样一批文学创作者,抱着反对世俗、反道德、反抗权威的态度,写出带有颓废倾向的作品。
太宰治以其波澜动荡的人生和自虐、反抗世俗的文学闻名于世,关于太宰治文学的争论很多,评论走向两个极端,有学者鸟居邦郎称之为“昭和文学不灭的金字塔”,也有学者如伊藤整评判其为“破灭型作家”。
由此可看出,太宰治在日本文学界是独具个性的存在,对当时社会和后世都产生了广泛影响,影响了一代又一代的年轻人。
二、太宰治文学中的引用贯穿于整个太宰治文学的创作方法与作品形式上的一大重要特征,就是模仿与引用。
学者关井光男在《太宰治与外国文学以及引用修辞学》中指出了引用之于太宰治文学创作方法所占位置与重要性。
近年来,学者中村三春又在文章《虚构小说的结构》中对此做了理论层面的深化解构。
“引用”在中文中的定义是,写文章时有意引用现成语(成语、诗句、格言、典故等)以表达自己的思想感情,说明自己对新问题、新道理的见解,这种修辞手法叫引用。
佳日太宰治これは、いま、大日本帝国の自存自衛のため、内地から遠く離れて、お働きになっている人たちに対して、お留守(るす)の事は全く御安心下さい、という朗報にもなりはせぬかと思って、愚かな作者が、どもりながら物語るささやかな一挿話である。
大隅(おおすみ)忠太郎君は、私と大学が同期で、けれども私のように不名誉な落第などはせずに、さっさと卒業して、東京の或る雑誌社に勤めた。
人間には、いろいろの癖(くせ)がある。
大隅君には、学生時代から少し威張りたがる癖があった。
けれども、それは決して大隅君の本心からのものではなかった。
ほんの外観に於ける習癖に過ぎない。
気の弱い、情に溺(おぼ)れ易(やす)い、好紳士に限って、とかく、太くたくましいステッキを振りまわして歩きたがるのと同断である。
大隅君は、野蛮な人ではない。
厳父は朝鮮の、某大学の教授である。
ハイカラな家庭のようである。
大隅君は独(ひと)り息子(むすこ)であるから、ずいぶん可愛がられて、十年ほど前にお母さんが死んで、それからは厳父は、何事も大隅君の気のままにさせていた様子で、謂(い)わば、おっとりと育てられて来た人であって、大学時代にも、天鵞絨(ビロード)の襟(えり)の外套(がいとう)などを着て、その物腰も決して粗野ではなかったが、どうも、学生間の評判は悪かった。
妙に博識ぶって、威張るというのである。
けれども、私から見れば、そんな陰口は、必ずしも当を得ているとは思えなかった。
大隅君は、不勉強な私たちに較(くら)べて、事実、大いに博識だったのである。
博識の人が、おのれの知識を機会ある毎に、のこりなく開陳(かいちん)するというのは、極めて自然の事で、少しも怪(あや)しむに及ばぬ筈(はず)であるが、世の中は、おかしなもので、自己の知っている事の十分の一以上を発表すると、その発表者を物知りぶるといって非難する。
ぶるのではない。
事実、知っているから、発表するのだ。
それも大いに遠慮しながら発表しているのだ。
太宰治的生平太宰治(だざいおさむ、明治42年(1909年)6月19日- 昭和23年(1948年)6月13日)日本小说家、作家。
本名津岛修治,出生于青森县金木村,(现. 五所川原市金木町) 考入东大法文系,因故,中途退学。
日本战后无赖派文学代表作家,父亲津岛原右卫门曾任众议院议员、贵族院议员,同时经营银行与铁路。
母亲体弱多病,自小他由姑母及保母照顾下长大。
幼年时期少了母亲的影响,改由保母养育长大的过往,对太宰的生涯有不可小觑的意义。
中学时期成绩优异,对芥川龙之介、泉镜花的文学十分倾倒。
芥川的自杀对高校时期的他产生了相当大的冲击与影响,1930年,进入东大法文科,初会井伏鳟二,奉为终生之师。
人物履历中学时代的太宰治中学时代的太宰治[1]一九零九年(明治四十二年)六月十九日,出生于青森县北津郡的金木村(五所川原市),本名津岛修治。
津岛家是津轻地区首屈一指的地主富豪之家。
太宰治的父亲津岛原右卫门,曾任众议院议员,后当选贵族院议员,同时经营银行、铁路;而他的母亲则是体弱多病,无力照顾儿子,因此太宰治从小是受姑母和保姆的抚养而长大。
太宰治出生之后,是津岛家那一辈里面的第六个男孩,上有五哥四姐,其中两个哥哥不幸夭折,只剩下文治、英治、圭治三人。
太宰治出生三年之后,幼弟礼治出生。
一九一六年(大正五年)七岁至市立金木普通小学就读,成绩杰出。
一九二一年(大正十一年)十二岁以第一名的成绩从普通小学毕业,后至离家两公里远的明治高等小学就读。
一九二三年(大正十二年)十四岁三月,父亲去世,享年五十三岁。
四月,至青森县立青森中学就读,寄宿该市寺町的远亲丰田家檐下。
中学期间,开始创作小说、杂文、戏剧,对泉镜花、芥川龙之介的文学相当倾倒。
一九二五年(大正十四年)十六岁发表《最后的太阁》。
和阿部合成、中村贞次郎等友人合编同人杂志《星座》。
一九二七年(昭和二年)十八岁至远亲藤田豊三郎的家里寄宿,就读弘前高等学校文科甲组(英语)。
年间,传来芥川龙之介自杀的消息,甚受冲击;和青森市滨町“玉屋”的艺妓红子(小山初代)相识。
太宰治维基百科,自由的百科全书跳转到:导航, 搜索太宰治日文假名だざいおさむ罗马拼音Dazai Osamu出生1909年6月19日日本国青森县北津轻郡金木村逝世1948年6月13日日本国东京北多摩郡三鹰町职业作家体裁小说,短篇小说文学运动私小说、无赖派显示▼受影响于太宰治(だざいおさむ,1909年6月19日-1948年6月13日),本名津岛修治(つしましゅうじ),日本小说家。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。
1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川赏的候选作品。
结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。
1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,得年39岁,留下了《人间失格》等作品。
目录[隐藏]• 1 经历o 1.1 出身o 1.2 学生时代o 1.3 小说家时代• 2 作家研究• 3 年谱• 4 作品o 4.1 小说o 4.2 中国出版的太宰治作品o 4.3 台湾出版的太宰治作品• 5 家族• 6 太宰治的传记•7 饰演过太宰治的演员•8 外部链接[编辑]经历[编辑]出身1909年6月19日,太宰治出生于青森县北津轻郡金木村(现在的青森县五所川原市,以前的金木町),是县内少数大地主津岛源右卫门与妻(夕子)的六男。
他们俩共有11名子女,而他是第10个小孩,血型AB型。
父亲源右卫门是松木家的入赘女婿,也是县议员、众议院议员,经营银行与铁路,并因多额纳税而成为贵族院议员,是地方名绅。
关于津岛家的祖先,他写道:“我所生长的家,并没有什么值得夸口的族系。
不知从何漂流而来并在津轻著根的百姓,便是我们的祖先。
我是无智生活着的贫农子孙。
我家应该也是在青森县之下,而名声则是从曾祖父惣助的时代开始为人”所知。
据说惣助不但是走卖的商人也从事借贷因而发迹。
又有一说认为,津岛家是从以前的对马国渡过日本海而在津轻定居的一族。
[编辑]学生时代中学时的太宰治1916年于金木第一寻常小学入学。
第1篇2023年,对于日本文学界来说,是纪念太宰治逝世70周年的一年。
太宰治,这位日本昭和时代最具代表性的文学家,以其独特的文风和深刻的思想影响了无数读者。
在这一年里,我们回顾了太宰治的一生,总结了他在文学上的成就与贡献,以及他对后世的影响。
一、太宰治的生平简介太宰治(1909-1948),原名津岛修治,出生于日本爱知县。
太宰治的家族是日本著名的书香门第,他的父亲津岛文兵卫是一位教育家。
太宰治从小就受到良好的教育,对文学有着浓厚的兴趣。
1924年,太宰治进入东京帝国大学文科大学英文科学习,1926年因违反校规被开除。
此后,他开始接触文学创作,逐渐形成了独特的文风。
二、太宰治的文学成就1.短篇小说太宰治的短篇小说作品丰富,其中最具代表性的有《斜阳》、《人间失格》、《斜阳之树》等。
这些作品以独特的视角揭示了人性的丑恶、社会的黑暗,以及人性的悲剧。
太宰治的短篇小说以其深刻的思想内涵、独特的文风和精湛的艺术技巧,被誉为日本昭和时代短篇小说的巅峰之作。
2.长篇小说太宰治的长篇小说作品相对较少,但同样具有很高的艺术价值。
其中,《斜阳》和《人间失格》最为著名。
《斜阳》以日本昭和时期的家族悲剧为背景,描绘了一个家族的兴衰历程,深刻反映了当时社会的矛盾和冲突。
《人间失格》则以主人公叶藏的内心世界为线索,揭示了人性的矛盾和挣扎。
3.散文和杂文太宰治的散文和杂文作品同样具有很高的艺术价值。
他的散文以细腻的笔触描绘了生活中的点滴,展现了人性的美好和丑恶。
杂文则以犀利的笔锋批判了当时的社会现象,具有强烈的现实意义。
三、太宰治的贡献1.推动了日本文学的发展太宰治的文学成就为日本昭和时代文学的发展做出了重要贡献。
他的作品以其独特的文风和深刻的思想内涵,为后来的作家提供了丰富的创作素材和灵感。
同时,太宰治的作品也促进了日本文学与世界文学的交流,使日本文学在世界范围内得到了更广泛的认可。
2.揭示了人性的丑恶和社会的黑暗太宰治的作品以独特的视角揭示了人性的丑恶和社会的黑暗,使读者深刻认识到社会的矛盾和冲突。
日本小说家太宰治的文学作品介绍日本小说家太宰治的文学作品介绍太宰治的作品,在日本的文学界,评论褒贬两极。
太宰治的一生中最出名的两件事情,无非是他的作品和自杀。
以下是店铺为你整理的太宰治的文学作品,希望能帮到你。
太宰治的文学作品前期太宰治的作品,主要是三个主题:文学、爱情、革命。
在这段时间里,太宰治主要经历了其求学、恋爱和革命三个方面,并以资金援助的形式参与了日本共产党的重建工作。
他结识了银座酒吧女,相约一起自杀,最终导致酒吧女的死亡,而太宰治并未因此丧命。
在脱离共产党后,《回忆》、《鱼服记》等作品,可以比较具体地体现其当时的生活和心态。
太宰治创作的第二个时期,是二战期间。
太宰治原本要被应召入伍,可惜身体检查不合格,让他免于了战场的腥风血雨。
但是这个时期他并没有因此停止写作,期间出版的作品有《关于爱和美》、短篇集《女生徒》、《新哈姆雷特》以及著名的.短篇《奔跑吧梅勒斯》等。
在这个时期,太宰治开始研究鲁迅,并发表了一系列以“中日亲善”为主题的作品,比较著名的又记录鲁迅生平的《惜别》等。
在战争结束后,太宰治的作品到达了其黄金创作阶段,而同时他的生命也因此走到了尽头。
在他生命结束的前一年,也就是1947年,他发表了《维荣的妻子》,是一部充满了颓废主义的作品。
之后,他一生中最主要的作品之一《斜阳》在《新潮》上连载。
这些作品同样充满了颓废主义的风格,奠定了他在日本文学界无赖派的地位。
1948年,他按照计划完成了《樱桃》和人生最后一部作品《人间失格》。
6月13日,他携同自己的第三任妻子山崎富荣一起自杀,他们的尸体在一周后被发现。
在太宰治死后,作品《人间失格》、小说集《樱桃》、评论集《如是我闻》等先后以单行本的形式被发行。
太宰治的生平介绍太宰治原名津岛修治,出生于1909年6月19日的日本津轻地区。
他的家族是当地著名的富豪,在太宰治上面,还有五个哥哥和四个姐姐,在下面还有一个弟弟。
1916年,太宰治就读金木普通小学,成绩优异。
解读太宰治《维荣之妻》中的家庭意识李艳【摘要】《维荣之妻》作为太宰治的名篇,集中体现了作者的虚无主义和颓废倾向.小说采用独特的“女性独白体”的写作手法,是“无赖派”文学的代表作.作品本身交织着作家对家庭的负罪感与愧疚感,因此通过解读《维荣之妻》中男女主人公的家庭意识,深层次挖掘男女主人公的潜在内心独自,对解读太宰治的文学作品能起到一定的借鉴.【期刊名称】《黄山学院学报》【年(卷),期】2015(017)004【总页数】3页(P69-71)【关键词】《维荣之妻》;家庭意识;女性独白体【作者】李艳【作者单位】黄山学院外国语学院,安徽黄山245041【正文语种】中文【中图分类】I106.4一、引言在日本文学史上,太宰治具有独特的文学地位。
其创作生涯自昭和八年以太宰治为笔名在《东京日报》上发表《列车》始,至昭和二十三年六月自杀止,仅有短暂的15年,但在日本文坛上留下了浓墨重彩的一笔。
太宰治的文学创作历程可分为3个时期[1]17:昭和八年至十二年为创作初期,其代表作主要以单行本为主,如《虚构的彷徨》《20世纪旗手》《晚年》等。
其创作初期处于左翼政权崩溃的时代,作品掺杂了令人费解及混乱的写作特点。
在昭和十三年至二十年的创作中期,他经历了战争,创作风格与早期有了很大的不同,以唯美感人的爱情为主,相对容易理解。
纵观其整个创作生涯,此时期太宰治生活状态和文学创作都比较稳定。
代表作有《满愿》《童话草纸》《跑吧,梅洛斯》。
其创作晚期为昭和二十年至二十三年,战后萧条时期的各种乱象使其感到迷惘、失落乃至绝望,从而形成了批判萧条社会、揭露丑恶人性的创作风格。
代表作有《维荣之妻》《斜阳》《樱桃》《丧失为人资格》。
其中《维荣之妻》采用女性为主人公的“女性独白体”来描写妻子的独白,叙述女性对于家庭关切和男性对于家庭的漠视与不负责任,具有鲜明的创作特点。
二、法律上的家庭所谓家庭是指共同生活的夫妻和孩子所构成的集体。
《维荣之妻》中的家庭看似也是如此。
一、引言战后初期的日本文坛上出现了具有典型意义的特殊文学派别“无赖派”。
这一文学流派的作品大多呈现战后初期日本社会的真实现象,描绘了“战败后的日本社会政治混乱、经济颓废、民众生活凋敝,整个社会处于激烈的转型状态,社会思潮发生根本变化”[1]的景象,在当时的日本社会引起了很大的反响。
而太宰治就是该文学派别的代表性作家,其被尊称为“昭和文学的金字塔”。
其文学造诣极高,文学艺术表现张力极强,叙事手法丰富多样,其中反讽叙事艺术是其文学创作的一大重要特色。
在采用反讽叙事的时候,太宰治时常将叙事话语的表层意义与深层意义进行错位,将叙事者的叙事话语与作者内在观点进行背离,通过两种或多种不同的叙事对立和冲突,以一种蕴含否定和嘲讽的艺术修辞形式表现出来。
这一特点在其《维荣之妻》的作品中表现得一览无余。
该作品以女性的独白体作为叙事方式,从叙事情节到叙事话语,从叙事人物到叙事主题,反讽叙事艺术都表现得淋漓尽致。
二、叙事情节的反讽叙事情节的反讽是指故事情节的矛盾化并置,将情节的差异性和矛盾性展现出来,体现了一种叙事的相悖,让读者阅读后产生一种反讽的美学效果。
在《维荣之妻》中叙事情节的反讽主要体现在三个方面。
其一,叙事情节的反常态。
反常态的叙事情节是反讽叙事艺术的重要表现形式,以直观性和具体性的艺术手法推动着反讽叙事艺术的呈现。
在作品中,作为丈夫的“大谷”平时对家庭和孩子漠不关心,但是这一天“大谷”喝得酩酊大醉后回到家里,还破天荒地询问孩子的病情。
此外,作为外表斯文的知名诗人“大谷”在居酒屋老板上门讨债时,完全不顾自己的脸面和名声,一反常态突然亮出大型折叠刀以示吓唬。
这些叙事情节的反常态凸显了作品的反讽意味,以一种突如其来的形式增强了讽刺的效果。
其二,叙事情节的特异性。
叙事情节的特异性是反讽叙事艺术手法的重要特征之一,以“特异性”的内涵将故事情节增添了一个崭新的反转,引导着叙事情节向前发展,进而出现反讽意味的彰显。
面对“居酒屋老板的倾述其丈夫‘大谷’多次忽悠,赊欠酒钱不还,并将其居酒屋的酒几乎喝光”这一事实,按照常理,作为妻子的“佐知”会马上表示歉意,然而此时妻子“佐知”并没有直接道歉,相反忍不住笑出声来。
太宰治「ダス・ゲマイネ」论作者:李帆来源:《牡丹》2017年第08期一、关于小说太宰治的小说「ダス·ゲマイネ」(中文翻译为“青年的奇态”)发表于昭和十年,即1935年雜志《文艺春秋》的十月号,后于1937年收录于《虚构的彷徨》(新潮社)。
据川崎和启(1993年)的推算,该小说完成于1935年5月到6月。
从太宰治的年谱种,人们可以了解到作者当时的境况。
2月,太宰治在《文艺》上发表小说《逆行》(后被提名芥川文学奖);3月,参加都新闻社的入社考试落选深受打击,独自前往镰仓山自缢未遂;4月患急性盲肠炎进入阿佐谷医院接受手术,腹膜炎并发,使用麻药镇静剂之后造成镇静剂中毒;5月1日到6月30日在经堂医院住院。
该作品就是在住院期间完成的。
8月芥川奖花落石川达三的《苍茫》,太宰治屈居次席。
而后,太宰治与同居次席的两位作家受杂志《文艺春秋》十月号作品发表的邀约,就有了《文艺春秋》十月号的「ダス·ゲマイネ」。
在作品《回忆》(『思い出』,1910年6月)的自序中,太宰治提到‘ダス·ゲマイネ’是德语‘Das Gemeine’的音译,意思为通俗性、卑俗。
人无一例外,内心深处都掩藏着这种卑俗性。
基于对题目的解释,小说中的人物音乐学院的学生马场、东京大学的学生”我”(被马场叫作佐野次郎左卫门)、画家佐竹以及作家太宰治体现出四人四相卑俗性。
小说是从”我”的视角展开的。
“我”暗恋于色街的妓女,但是因为经济条件不能经常见面,更没办法为她赎身。
于是“我”便退而求其次,出入于上野公园旁边的一个居酒屋,因为在那里工作的菊和“我”心爱之人长相十分相似。
就是在这个居酒屋,“我”遇见了马场。
马场是一个沉迷于艺术的青年,但是毫无作为,沉浸于自己的幻想之中并且满口谎言。
不可思议的是,“我”对马场所说的话都深信不疑。
“我”因为失恋自杀未遂,整日沉浸在低落的情绪里。
马场来信说要和“我”一起办杂志,杂志叫《海贼》。
随后佐竹、“太宰治”相继登场。
狂言の神太宰治なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容(おももち)をすな。
(マタイ六章十六。
)今は亡(な)き、畏友(いゆう)、笠井一について書きしるす。
笠井一(かさいはじめ)。
戸籍名、手沼謙蔵。
明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木町に生れた。
亡父は貴族院議員、手沼源右衛門。
母は高(たか)。
謙蔵は、その六男たり。
同町小学校を経て、大正十二年青森県立青森中学校に入学。
昭和二年同校四学年修了。
同年、弘前高等学校文科に入学。
昭和五年同校卒業。
同年、東京帝大仏文科に入学。
若き兵士たり。
恥かしくて死にそうだ。
眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣が見える。
なあんてね。
笑いながら厳粛のことを語る。
と。
「笠井一(かさいはじめ)」にはじまり、「厳粛のことを語る。
と。
」にいたるこの数行の文章は、日本紙に一字一字、ていねいに毛筆でもって書きしたためられ、かれの書斎の硯箱(すずりばこ)のしたに隠されていたものである。
案ずるに、かれはこの数行の文章をかれ自身の履歴書の下書として書きはじめ、一、二行を書いているうちに、はや、かれの生涯の悪癖、含羞(がんしゅう)の火煙が、浅間山のそれのように突如、天をも焦(こ)がさむ勢にて噴出し、ために、「なあんてね」の韜晦(とうかい)の一語がひょいと顔を出さなければならぬ事態に立ちいたり、かれ日頃ご自慢の竜頭蛇尾の形に歪(ゆが)めて置いて筆を投げた、というようなふうである。
私は、かれの歿したる直後に、この数行の文章に接し、はっと凝視し、再読、三読、さらに持ち直して見つめたのだが、どうにも眼が曇って、ついには、歔欷(きょき)の波うねり、一字をも読む能わず、四つに折り畳んで、ふところへ、仕舞い込んだものであるが、内心、塩でもまれて焼き焦がされる思いであった。
残念、むねんの情であった。
若き兵士たり、それから数行の文章の奥底に潜んで在る不安、乃至(ないし)は、極度なる羞恥感、自意識の過重、或る一階級への義心の片鱗(へんりん)、これらは、すべて、銭湯のペンキ絵くらいに、徹頭徹尾、月並のものである。